Blooming Days,Dec’13 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Dec’13

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みなさん、こんにちは。倉嶋桃子です。

しぶんぎ座流星群、ペルセウス座流星群とならんで三大流星群のひとつとされている「ふたご座流星群」。
今年のピークは明日14日の午後四時頃とされていますので、日本では、今日13日夜から明日の明け方と明日14日夜から明後日15日明け方にかけてが流星群観測のチャンスとなります。

今年は日没から深夜にかけて月が、夜空を明るく照らすため、未明になるまでは流星観測にはあまり好条件とは言えませんが、それでも、街明かりの影響が少ない場所では、月の出ている時間帯でも、1時間に20~30個程度、月の沈んだ後には、1時間に50個以上見える可能性があるそうです。

流星群に属する流れ星は、放射点という天球上の一点から流れますが、ふたご座流星群は、冬に見頃を迎えるふたご座に放射点があるため、夜の早い時間に放射点が地上に昇ってきます。
このため、活動期にはほぼ一晩中ふたご群の流星を観測することができます。

ただし、両日とも午前2時ごろまで上弦過ぎの月明かりが空を照らしているため、見やすいのはそれ以降から明け方までのようです。

流星は一方向に現れるのではなく空全体に現れるので、広く空を見渡せるような場所で観測すると、より多くの流星を発見できる可能性が高くなります。
レジャーシートを敷いて寝転ぶと見やすいかもしれませんが、寒いこの時期、くれぐれも防寒対策は忘れずに。

今日13日の夜は、日本付近は冬型の気圧配置になり、東日本や西日本の太平洋側の地域では晴れる所が多い予想で、流星観測に好条件となることが期待出来ます。
冷たい空気が流れ込みますので、夜は軒並み一ケタの気温となります。
一方、北日本や東日本の日本海側は雨や雪が降り、残念ながら観測には向かない夜になりそうです。

さて、明日12月14日は、忠臣蔵討ち入りの日。
赤穂四十七士が、吉良上野介邸に討ち入りを行った日と言われています。
これを元にした文楽や歌舞伎でおなじみの「忠臣蔵」は、亡き主君に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良邸に討ち入り、吉良上野介らを討ったお話として有名ですが、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とはどうやら異なる部分もあるようです。

今日の放送は、「知っているようで知らない『忠臣蔵』のお話」をテーマにお送り致します。

参考資料

ふたご座流星群が極大(2021年12月) | 国立天文台(NAOJ)
https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2021/12-topics02.html

「Interest」in bloom-その1-

Blooming Days,Dec’13

赤穂事件は、18世紀初頭、江戸時代の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家(こうけ)の吉良上野介義央(よしひさ)に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩(ながのり)が切腹に処せられた事件のこと。

さらにその後、亡き主君の浅野長矩(あさのながのり)に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央(きらよしひさ)らを討ったことで、現在では忠臣蔵として広く知られるようになりました。

赤穂事件を扱った創作物は、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、忠臣蔵と呼ぶことが多いですが、講談では赤穂義士伝、あるいは単に義士伝とも呼ばれています。


赤穂事件とは

吉良を討ち取った四十七士の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士と呼び、それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いようですが、この名称は、事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛 次郎(おさらぎ じろう)が、それまでの義士としての四十七士像を、浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものと言われています。

この事件は、旧暦元禄14年3月14日(1701年4月21日)、赤穂藩主 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)が、江戸城松之大廊下で、高家(こうけ)吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしひさ)に斬りかかった事に端を発します。

浅野内匠頭は、接待役である勅使饗応役を務めており、その礼儀作法の指南をしていたのが、高家の吉良上野介でした。
高家とは幕府の儀式・典礼を司る役職で、任じられるのは名門の家柄に限られていました。

ドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた「吉良による嫌がらせ」を原因として描かれることが多いようですが、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明とされています。

事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だった為、場所柄もわきまえずに刃傷(にんじょう)に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は大激怒。

浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上、改易(かいえき)されましたが、一方の吉良にはお咎めはありませんでした。

当時は「喧嘩両成敗」の慣習があり、喧嘩が起きた場合には双方に非があるとして、両者の言い分を吟味した上で、裁定するのが通例でしたが、この幕府の裁定を巡り、「吉良側も喧嘩両成敗によって何らかの処分を受けるべきではないか」と、浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。

筆頭家老である大石内蔵助を中心に対応を協議し、反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されましたが、この段階では浅野内匠頭の弟である浅野 大学(あさの だいがく)を中心とした浅野家再興の道も残されており、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にしました。

一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には、江戸急進派と呼ばれる強硬派がおり、吉良を討ち取る事に強くこだわっていました。

彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった為、赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説きましたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡されることになりました。

しかし、浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣達は京都の円山で会議を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明しました。

そして仇討ちの意思を同志に確認するため、討ち入りを取り止めると偽った上で、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めました。

そして旧暦の元禄15年12月14日(1703年1月30日)、吉良邸に侵入した大石以下四十七士は吉良上野介を討ちとり、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えると、吉良邸討ち入りを幕府に報告した一行は、幕府の指示に従って全員切腹。

そもそも幕府の一方的な裁定から起きた仇討ちではないかと、切腹命令に怒る人々も少なくありませんでしたが、こうして事件は幕を閉じました。

参考資料

赤穂事件 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/tx7q

浅野長矩 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/kklz

吉良義央 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/4cqk

赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説 | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7060

「Interest」in bloom-その2-

吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かいましたが、四十七士のひとりである寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していたとされています。

これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々あります。


47人目の浪士、寺坂吉右衛門

寺坂吉右衛門は、浅野内匠頭に直接仕えていたわけではなく、吉田忠左衛門の組下(くみした)の足軽でしたが、同志に加えて貰えるよう強く願い、大石内蔵助は最初は寺坂の身分を考えて躊躇しましたが、その熱意にほだされて義盟に加えたといいます。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)の元禄赤穂事件では裏門隊に属していましたが、討ち入り後に赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには寺坂の姿はなく、彼を赤穂浪士の一人として加えるべきかどうかが、事件当時から論争の火種になってきました。

しかし、昭和11年に吉田忠左衛門縁戚、伊藤十郎太夫の末裔である伊藤家から多数の資料が発見されたのをもとに書かれた伊藤武雄(いとうたけお)著「赤穂義士 寺坂雪冤録(てらさかせつえんろく)」によると、「討ち入り後、泉岳寺の門前で寺坂吉右衛門は大石、原、片岡、間瀬、
小野寺、堀部の各氏から播州赤穂に赴く事を説得された。」とあり、大石らは後に寺坂が卑怯未練と言われるのを恐れ、一通の書状を持たせたと書かれています。

寺坂自身が残した記録「寺坂信行筆記(てらさかのぶゆきひっき)」には「引揚げの途中、仔細(しさい)あって一行から引き離れた」とのみ書いていますが、一同が仙石邸から四家お預けになったのを密かに確認してから江戸を発ち、12月29日に播州亀山に着いたとの記述があります。

そまた翌2月3日、切腹と決まった吉田忠左衛門が伊藤十郎太夫に送った最後の手紙には、「幕府からの咎めもないはずなので、寺坂のことをくれぐれも宜しく頼む」という記述もあります。

そして最後に、「この願いは了解するにとどめて、うかつな事はいわないで欲しい」と、はっきり記されています。

寺坂の子孫が残した「寺坂私記」には、はるばる遠く安芸国まで行き、

「祖父 吉右衛門儀は、その場より芸州江(げいしゅうへ) 注進のため罷(まか)り越す。右芸州へ罷り越し候訳(わけ)は、内匠頭殿舎弟大学との居られ候に付き、内蔵助より差図に付き罷り越し候」と浅野 大学へ仔細を報告したとなっています。

そして、四十六人切腹から一年後、仙石久尚(せんごくひさなお)のもとに自首しますが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出したと言います。

浅野長矩(あさのながのり)の親戚である仙石は、大石が出頭した大目付であり、評定所では浅野びいきの判決を出した人物。

寺坂が討ち入りに加わりながら幕府の追手に掛らなかったのはすべて仙石久尚の意向によると言われています。

伊豆大島に遠島(えんとう)に処された吉田 兼亮(よしだ かねすけ)の遺児 吉田兼直(よしだかねなお)にも忠義を尽くし、遠島の際の見送り、赦免(しゃめん)後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っていました。

その後、享保11年(1726年)寺坂吉右衛門は麻布・絶江坂(ぜっこうざか)の曹渓寺(そうけいじ)住職の計らいで、山内家に士分として取り立てられます。

延享4年(1747年)に83歳で病死。
曹渓寺に葬られますが、後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられ、討入りに参加した四十七士が揃うことになりました。

戒名「遂道退身信士(ちくどうたいしんしんじ)」の意味は、道を遂げ身を退く。

他の義士の戒名に必ず付けられた「刃(やいば)」、「劔(つるぎ)」の文字はありませんが、姿を隠し、任務を果たした寺坂吉右衛門にふさわしい戒名だと思います。

参考資料

寺坂信行 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/9rc6

仙石久尚 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/0qju

Blog – Deep Azabu: 南麻布の寺坂吉右衛門
http://deepazabu.blogspot.com/2012/12/blog-post_11.html

「Interest」in bloom-その3-

この赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)。

曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討ち入りの趣向を見せたものでした。

以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、討ち入りから4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』が竹本座で上演され、延享4年(1747年)には初世沢村宗十郎が京都中村粂太郎(なかむらくめたろう)座の『大矢数四十七本(おおやかずしじゅうしちほん)』で大岸 宮内(おおぎし くない)を演じました。

そして、その集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された二代目竹田 出雲(たけだ いずも)・三好 松洛(みよし しょうらく)・並木 千柳(なみき せんりゅう)合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』で、初演のときには「古今(ここん)の大入り」、すなわち類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられています。


民衆から喝采を持って迎えられた忠臣蔵

『仮名手本忠臣蔵』はのちに独参湯(どくじんとう/薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でも
これを出せば当たるといわれるほどであったといいます。

「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にかけているなどとされていますが、定かではありません。

昭和9年(1934年)には新歌舞伎『元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演されたほか、講談、浪曲でも「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」など、事件を扱った物語が歌舞伎、人形浄瑠璃、講談、戯作(げさく)など、ありとあらゆる分野で幾度となく作られました。

第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われ、連合国軍 最高司令官 総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、「忠臣蔵」を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとし、当 事件を題材とした作品の公演、出版等を一時期禁止しましたが、昭和22年(1947年)にはその禁も解かれ、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が東京劇場で上演されています。

本所の吉良邸襲撃の日は旧暦12月14日ですが、現在も新暦12月14日が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せません。
多くの映画製作、テレビドラマ化、舞台上演がほぼ毎年行われ、現在では、多くの資料研究の進展を反映させた書籍の出版や実名での作品化がなされるようになり、価値観の多様化と研究考証から、討ち入りに参加しなかったあるいは出来なかった赤穂藩士、討ち入り後に残された義士の遺族や子孫、敵役とされる吉良側、当時の江戸幕府の事情など、様々な視点に立って作品化がなされています。

東京大学 史料 編纂所教授・山本博文の著書である『「忠臣蔵」の決算書』には、大石内蔵助が討ち入り決行までの潜伏期間で使用した費用すべてを記録した帳簿「預置候金銀請払帳(あずかりおき そうろう きんぎん うけはらいちょう)」を元に、討ち入りに費やした資金は約七百両と推定。現在の価値にして約1億円。

2019年に『決算!忠臣蔵』のタイトルで実写映画化されていますが、仇討ちには想像以上にお金がかかるようです。

参考資料

忠臣蔵 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/2h65

「忠臣蔵」の決算書 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/7uk6

「決算!忠臣蔵」原作者が語る浪士の経済事情 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
https://toyokeizai.net/articles/-/317151

「Interest」in bloom-その4-

元禄15年(1702年)12月14日の早暁、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが始まると、隣家に住む土屋主税(つちやちから)は浪士たちからの申し状を聞き入れ、吉良家には加勢しないことを約束。逆に塀に沿って灯りを掲げ、その下には射手を侍らせ(はべらせ)、堀を越えてくる者があれば誰であろうとも射て落とせと命じたという話があります。

これは、土屋と親しい新井白石(あらいはくせき)がそれを聞き、さらに白石と同門の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)が、白石から聞いた話として『鳩巣小説(きゅうそうしょうせつ)』に記されています。


吉良邸の隣家に住む土屋主税の証言

元禄15年12月14日の深夜、赤穂浅野家旧臣 吉田忠左衛門の使いの者が土屋邸に近づき、塀越しにこのように挨拶をしたと言います。

「我ら浅野内匠頭家来ども、主人の敵(かたき)ゆえ、ただ今 吉良上野介殿屋敷に押し込みました。騒ぎに及ぶことと存じますので、あらかじめご案内申し上げます。武士は相身互いと申します。我らが吉良殿を討ちますこと、どうかお構いなくお願いいたします」

口上を聞いた土屋主税(つちやちから)は「心得申した」と返事するとともに、家来に塀際に高張提灯(たかはりちょうちん)を掲げさせ、「塀を乗り越えて来る者がいたら、弓で射落とせ」と命じ、自らは床几(しょうぎ)に腰を据えて、事の次第を見守ることにしたと書かれています。

夜明け前、「本当のことを言わぬか」と大声で誰かが言うのが聞こえ、また別の者の「額の古傷を見よ」と言う声がした後、しばらくすると、大勢がワッと泣き声を上げたのを聞いて、これは上野介の首を打ち、本懐(ほんかい)を遂げた悦びの声であったろうと土屋主税は語っています。

その後、再び吉田忠左衛門の使いの者が来て、塀越しに「ただ今、吉良上野介殿を討ち果たしました。顔を知る者に確認いたしましたところ、まぎれもなく上野介殿であるとのことです。御首(みしるし)をあげる狼藉はやむを得ないことながら、騒動を起こし、ご迷惑をおかけいたしました。すべて済みましたこと、ご報告いたします」と告げ、そのまま引き上げたと言います。

江戸文化・風俗の研究家である三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)は、土屋家が不始末を理由に改易され、2万石の大名の地位を失い、3000石の旗本に転落していることなどから、そのような立場の者が赤穂浪士に加担する言動をとるとは考えにくいとして、土屋主税が事件へ関与した可能性を否定していますが、この場面は後年、数々の講談や歌舞伎など「忠臣蔵」関連の題材に頻繁に取り入れられているようです。

堀を越えてくる者があれば誰であろうとも射て落とせと命じたというのは事実ではないとしても、討ち入り前と討ち入り後の挨拶くらいはあったのではないかなと思ってしまいます。

参考資料

蝶は頭とも数えるが、どうしてか知りたい。 | レファレンス協同データベース
https://blooming-days.njs.xyz/o8d1

チョウの数え方 | 目からウロコ!数え方のナゾ
https://blooming-days.njs.xyz/e5cc

『もののかぞえかた』> 生物に関する数え方 !!!
https://www.monokazoe.com/seibutsu.html

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また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

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