Blooming Days,Nov’08 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Nov’08

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みなさん、こんにちは。倉嶋桃子です。

暦の上では、7日に立冬を迎え、冬へ季節が変わる頃になりました。

通勤途中に川を渡る橋の上からは、背が高かった草が刈り取られ、周辺にはオレンジ色に近い濃い黄色のコスモスのようなお花が、より一層鮮やかに見えます。

このお花は、随分と長い期間咲いているなぁと以前から思っていましたが、よく目にするピンクや白の色違いの「コスモス」ではなく「キバナコスモス」という別の名前のお花で、「コスモス」の開花時期は9月~10月、「キバナコスモス」は6月~11月です。

「コスモス」も「キバナコスモス」もキク科コスモス属で「一年草※」ですが、別の種類でお互いに交配できないものだそうです。(※春に種子から発芽し、生長、開花、結実し、種子を散布し枯れるまでが一年以内の植物のこと)

この2種類のコスモスの原産地は同じメキシコですが、主に赤系統の「コスモス」の方は明治時代に持ち込まれ、黄色い花の「キバナコスモス」は、大正時代のはじめに観賞用として輸入されました。

時代が下ると、品種改良が進み、それまで赤やピンク、白色のものしかなかったコスモスは、1987年(昭和62年)玉川大学農学部の育種学研究室が30年以上の歳月をかけて世界で初めて、黄色いコスモス「イエローガーデン」を開発しました。

その後さらに、はっきりとした黄色のコスモスが開発され、「学園を彩るコスモス」の意味を込めて「イエローキャンパス」と命名され全国に出回るようになりました。
この「イエローキャンパス」は、咲き始めのときは白っぽく見えますが、気温がだんだん下がるにつれて黄色味が増すというのが特徴です。

東京では「昭和記念公園」のコスモスが有名ですが、ここにも「イエローキャンパス」、「イエローガーデン」のほか「オレンジキャンパス」「キバナコスモス」、「レモンブライト」など、黄色いコスモスだけでもおよそ150万本が植えられていて、9月中旬から10月下旬にかけて一ヶ月半ほど黄色一色のコスモスを楽しむことが出来ます。
残念ながら、現在は既に見頃が終わり、一部でのみ見られるようですが、最近の園内全体の情報では、例年より少し早く始まった紅葉が楽しめるようです。

この後5時からの「おかえり!854」のパーソナリティ「ハラちゃん」も、毎年このコスモスの写真を撮りに行っているようです。
おそらく番組内で見頃の時期のレポートがあるかと思います。来年は、黄色一色になった昭和記念公園にぜひとも足を運んでみてください。

さて、明日11月9日から15日までの一週間、秋の火災予防運動が実施されます。
この運動は、火災が発生しやすい時季を迎えるにあたって、防火防災意識や防災行動力を高めることで、火災の発生を防ぎ、万が一発生した場合にも被害を最小限にとどめ、火災から尊い命と貴重な財産を守ることを目的として行います。

今でこそ、消防車やはしご車を使って消防隊員が消火活動を行いますが、江戸時代、火事の多かった江戸の町では、町人たちが組織した町火消によって消火が行われていました。
今日のTOKYO854では、暴れん坊将軍でもお馴染みの町火消し「め組の辰五郎」をテーマにお送り致します。

参考資料

コスモス – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/dmu1

キバナコスモス – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/9n17

黄色のコスモスとキバナコスモスは違います! | 園楽project~園芸・植物を楽しむ情報サイト~
https://blooming-days.njs.xyz/9xip

一年草とは – コトバンク
https://blooming-days.njs.xyz/9hen

玉川豆知識 No.19|社会・地域連携|玉川学園
https://blooming-days.njs.xyz/ni5b

国営昭和記念公園公式ホームページ
https://www.showakinen-koen.jp/

さて、本日の放送内容です。

「Interest」in bloom-その1-

暴れん坊将軍でもおなじみの「め組の頭、辰五郎」。

ドラマの中で、北島三郎演ずる辰五郎は、め組の初代の頭で、後に町火消 肝煎、江戸町火消 総元締となりました。


め組の辰五郎

め組とは、第8代将軍徳川吉宗の時代にはじまる 町人による火消しの組織「いろは四八組(しじゅうはちくみ)」のひとつ。

いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とし、いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」は、験が良くないことから、それぞれ「百」「千」「万」「本(ほん)」に置き換えて使用されました。

火事の多かった江戸の町では、火事による幕府財政への悪影響が大きいことから、享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相が、翌3年に火消組合の組織化を目的とした町火消 設置令を出し、享保5年(1720年)、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所(ほんじょ)・深川を担当する16組の町火消が設けられました。

のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所・深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括されました。

町火消は、当初、地借(じがり)・店借(たながり)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人で構成されていました。

これは、名主に対し、鳶職人を雇わないようにとのお触が出されていたためでしたが、江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため、火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主だったため、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかで、その後、名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも、少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになりました。

町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり)、いろは組などの各組を統率する頭(かしら)、纏持(まといもち)と梯子持(はしごもち)、鳶人足である平人(ひらびと)、下人足(しもにんそく)である土手組(どてぐみ)といった構成になっており、頭取には一老(いちろう)・二老(にろう)・御職(おしょく)の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在でした。

江戸全体で約270人いた頭取は、力士や与力(よりき)と並んで江戸三男(えど・さんおとこ)と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもありました。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、江戸の町では、火事だけではなく喧嘩も多く、火事場では、消火活動時の功名争いが原因で、消口争い(けしくちあらそい)と呼ばれる町火消同士の喧嘩も後を絶たず、死者が出たり、仲直りのため多大な費用をかけた手打式が行なわれたりと、大きな騒ぎになることも度々でした。

喧嘩相手は、火消し同士とは限らず、文化二年二月(1805年2月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件は、講談や芝居の題材にもされました。

ことの発端は、芝神明宮(しばしんめいぐう)境内で行われていた相撲の春場所見物で、め組の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが原因。

「め組」の管轄だった芝神明宮 界隈で、木戸御免(きどごめん)が認められていた辰五郎と長次郎ですが、そうではなかった富士松は、木戸銭を払う払わないで木戸番と口論となり、通りかかった力士の九竜山(くりゅうざん)の仲裁で、辰五郎らは一旦引き下がったものの、その後、芝居見物に向かった芝居小屋で力士の九竜山と偶然鉢合わせとなり、先刻の恨みが再燃。

他の見物客らが煽ったこともあり、辰五郎らは、九竜山のその巨体を野次り、満座の中で恥をかかせた事で、こらえきれなくなった九竜山が辰五郎を投げ飛ばし、芝居を台無しにしてしまいました。

火消しの頭や相撲の年寄も仲裁に入って一旦は収まりかけましたが、同部屋の力士四ツ車(よつぐるま)が九竜山をあおって復讐をたき付け、部屋から力士仲間を応援に呼び集め、これに対して火消し衆も火事場支度で応戦、さらには火の見櫓(ひのみやぐら)の早鐘(はやがね)まで鳴らして仲間に動員をかけるなど、大騒動となりました。

その喧嘩を近くで見ていた江戸の名大関、雷電 為右衛門(らいでん ためえもん)が当時の様子を『雷電日記(らいでんにっき)』に書き残しています。

「鳶の者たちは火見櫓に上り、半鐘を打ち鳴らし、拍子木を叩いて仲間を二、三百ほどかき集め、相撲小屋の木戸前に押しかけてきた。そして家の屋根瓦をむしっては投げ、鳶口(とびぐち)を振り回しては木戸前で なおも騒いだ。さらに九竜山と同じ部屋の幕内力士四ツ車が一人で(助っ人に)やって来た。鳶職人らは彼に向って鳶口をふりかざして向かっていった。四ツ車は、着物を脱ぎ、鳶職人らに切ってかかり、うち一人を切り倒してしまった。その他に二、三人ほど傷を負わせてしまった。相手も身を引いたので、四ツ車を相撲部屋へ引き入れることにした。」

困った相撲年寄たちが奉行所へ願い出て、町の奉行所が取り締まりに出勤して乱闘に割って入り、火消しと力士合計36人が捕縛(ほばく)されました。

裁きは9月になって下りましたが、発端が火消し側にあったこと、また、特に非常時以外での使用を禁じられていた火の見櫓の早鐘(はやがね)を私闘のために使用、事態を拡大させた責任が重く見られたため、全体に相撲側に甘く、火消し側に厳しいものとなりました。

早鐘に使用された半鐘(はんしょう)は遠島(えんとう)扱いになり、辰五郎は百叩きの上、江戸追放、長次郎と早鐘を鳴らした長松は江戸追放、その他の鳶は説諭(せつゆ)と罰金と比較的軽く済みました。

力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、他にお咎めはなし。
遠島になった半鐘は、明治時代になってから芝大神宮に戻されたそうです。

め組の辰五郎は実在した人物ですが、暴れん坊将軍に出てくるサブちゃん演ずる「め組の頭」とはどうやら違う人物のようです。

参考資料

火消 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/l8kz

暴れん坊将軍 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/twc1

め組の喧嘩 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/ukou

大乱闘力士&火消ブラザーズ!主犯の”鐘”が島流しにされた大事件「め組の喧嘩」の史実を探る! | 和樂web 日本文化の入り口マガジン
https://blooming-days.njs.xyz/woy1

神明恵和合取組 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/920y

「Interest」in bloom-その2-

数多くのフィクションの題材とされている火消または鳶頭の辰五郎のモデルとなったのは、江戸時代後期の町火消、侠客だった新門 辰五郎(しんもん たつごろう)のこと。


「最後の侠客」とも言われる「を組の辰五郎」

江戸町火消しの元締で、本名 町田辰五郎。

鳶人足から人足頭、町火消十番組の頭になり、浅草寺の門番も勤めました。

幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼(るいしょう)した責任を取り、町火消になったと伝えられています。
浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門(まちだにえもん)の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する仁右衛門に目をかけられ婿養子となり、辰五郎の名を与えられました。

文政4年(1821年)の浅草花川戸(はなかわど)での火事の際、真っ先にかけつけた辰五郎は火事場で纏(まとい)を掲げて屋根に上りましたが、遅れてやってきたにもかかわらず、筑後国柳川藩(やながわはん)立花家の大名火消が屋根に纏を揚あげたことから、これを見た辰五郎は黙っていられず、自分の持つ纏で柳川藩の纏持ちを殴りつけたため、柳川藩の纏持ちは転落し負傷。

このため両陣営が喧嘩となりましたが、組頭の仁右衛門がそこに割って入り、どうにかその場は収まりました。

鎮火後、「下手人(げしゅにん)を出せ!」と申し入れてきた立花家に対し、辰五郎は単身で柳川藩藩邸に乗り込み、下手人は自分であるため好きにしろ、と啖呵を切ると、堂々と乗り込んできた辰五郎に対し、柳川藩はこれを処分することができず、辰五郎は無罪放免となりました。

この顛末は世間の評判となり、武家を相手に一歩も退かぬ辰五郎は喝采を浴び、を組の火消辰五郎は江戸の町で名を上げることになりました。

18歳で仁右衛門の娘の錦(ぬい)を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承した辰五郎は、200余名の火消の棟梁としてだけではなく、侠客(きょうかく)や博徒(ばくと)、的屋(てきや)や香具師(やし)などの元締め的存在でもありました。

弘化(こうか)2年(1845年)正月24日に青山で起こった火事の現場では、を組と久留米藩有馬家の大名火消とが乱闘になり、非は有馬側にあったとされるものの、辰五郎は、身分上下の筋が通らないとして自ら出頭し、責を取って江戸所払い(えどところばらい)となりました。

しかし、夜な夜な江戸市中の二人の妾の元へ通い、その邸宅から子分に指示を出していたことが露見し、石川島の人足寄場(にんそくよせば)に送られました。

翌年の大火の際、佃島に迫った火災に対し、辰五郎は牢仲間の博徒 小金井小次郎と共に寄場の人足(囚人)を率いて消火活動を行い、油倉庫を救った功績を南町奉行遠山景元に賞され、放免とされました。

評判の辰五郎に、上野大慈院 別当(べっとう)・覚王院 義観(かくおういん ぎかん)が浅草寺(せんそうじ)界隈の取締を行う掃除方(そうじがた)を依頼すると、辰五郎は、浅草の的屋や香具師(やし)などの上に立つようになり、財を成したと言います。

辰五郎は、江戸の侠客の中でも図抜けた資金力を誇り、支配下の的屋が納める場所代などで、押入の床が抜けたと言います。

その資金力をもって、幕末期には、江戸のほか、京都に2軒、大坂堂島に屋敷を構えていました。

前寛永寺座主(ざす)の舜仁法親王(しゅんにん ほうしんのう)が浅草新門あたりに隠棲(いんせい)した際、幕府より周辺の警護を命じられ、以降、辰五郎は「新門」(しんもん)を名乗るようになりますが、当人は「あらかど」と名乗っていた、とする説もあります。
当時、幕府の高級官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、その著書『氷川清話(ひかわせいわ)』の中でも触れられています。

覚王院 義観の仲介により一橋慶喜(のちの:徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、のちに娘の芳(よし)は慶喜の妾となりました。

元治(げんじ)元年(1864年)に禁裏御守衛総督(きんり ごしゅえい そうとく)に任じられた慶喜が京都へ上洛すると、慶喜に呼ばれ、子分250名を率い、同じく60名を率いた息子の松五郎と共に東海道を上洛して、二条城の警備などを行いました。

慶応3年(1867年)の大政奉還ののち、鳥羽・伏見の戦いの幕府方敗戦後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には辰五郎らも一旦 撤退しましたが、大阪にとって返し、大坂城に残されたままになっていた徳川将軍直属軍の象徴「家康以来の金扇(きんせん)の大馬印(おおうまじるし)」を取り戻すと、これを掲げたまま東海道を下って無事送り届けたと言います。

その後、慶喜が謹慎していた上野寛永寺の寺の警護にも当たり、旧幕臣(彰義隊:しょうぎたい)と新政府軍による上野戦争に際しては、寛永寺伽藍の防火と鎮火、延焼の防止に勤め、慶喜が水戸(茨城県)さらに駿府(現静岡市葵区)へと移され、それぞれの地で
謹慎させられた際もそれぞれの地で警護を務めています。

徳川家が駿河国(駿府藩)に移されることになった際、旧幕臣の集まりが悪く、将軍最後の大名行列を編成するには寂しいことになりそうだったことから、辰五郎は江戸中の配下に声をかけ、侠客や町火消が装備を纏って集結し、江戸町火消全組の纏が振り投げられ、数千人の火消らが警護する中、幕府は江戸を後にしました。

この行列には江戸城から運び出された将軍家の金2万両も含まれていましたが、このお金も辰五郎らが警備し運搬したといいます。

駿河到着後は駿府の常光寺(じょうこうじ)に住み、東海道一の親分と言われた清水次郎長に、慶喜の今後の警護を依頼した、と言われています。
その後、東京(江戸)へ帰り、明治8年(1875年)に亡くなりました。

徳川慶喜とも非常に関係の深い人物でしたが、残念ながら大河ドラマ『青天を衝け』では登場することはありませんでした。

参考資料

新門辰五郎 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/kxqt

新門辰五郎 辰五郎が新門を名乗るようになったのは実はこの浅草に由来する | The Shinmon Tatsugoro
https://asakusa-shinmon.jp/detail/149

史実・火消 – 一社江戸消防記念会
http://www.edosyoubou.jp/historical.html

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

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