Blooming Days,Nov’01 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Nov’01

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先日テレビを見ていると、「リヤカー」を使った販売形式(行商)のものがコロナ禍で広まりを見せているという話題が取り上げられていました。
取扱商品は、野菜や果物類、雑貨のほか、軽食やお弁当など、販売品目も多様化しているようです。
食品を例に見ると、キッチンカーのように車ごと購入するタイプよりも費用がかなりおさえられ、営業地を所管する保健所から営業許可を受ければ、誰でも始められるというところも魅力のようです。

また消費者にとっても、自分の生活圏内に移動してきてくれるのは、自分で移動する手間も省け、人混みを避けることもできるとあってか、とても助かっていると、インタビューに答えている方もいました。

この「リヤカー」、金属製のパイプと空気入りタイヤで構成された2輪の荷車で、日本では軽車両として公道利用が認められており、人、もしくは自転車、オートバイによって牽引して使われています。

ちなみに、「リヤカー」という名称は、1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時に、静岡県富士市の望月虎一(もちづきとらいち)氏が、サイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して発明したもので、サイドカー(Side + Car)にならって「後部(Rear)に位置する車(Car)」の意味で「リヤカー」と命名されたそうです。

「リヤカー」が発明されるまでは、荷車には「大八車」が使われていましたが、頑丈な木で作られているので重く、振動がはがしい為、運搬物を傷める恐れもあったことから、運べる荷物の種類が限られるなど不便なことも多かったとか。
また、構造上左右を曲がるのに力が必要だったため、誰でも簡単に操作ができるというものではなかったようです。

燃料を使って運搬する車両がまだ高価だった時代、人力でも多くの荷物を運ぶことができた「リヤカー」は、大八車のように、製造や修理の際に木工職人の熟練技術は必要なく、小さな町工場規模で生産可能だった為、その利便性と価格の安さもあって普及していきました。

戦後、自動車が普及し始めると、一般的な小口の物流手段としては、オート三輪や軽トラックなどにとってかわり、次第に見かけなくなりましたが、現代になって、活用範囲が狭まったものの、屋台の他、飲食・物販での利用、敷地内運搬作業用、大都市圏での宅配での利用、また、自衛隊では装備から食料まであらゆる運搬用として活躍を続けています。

また、最近のリヤカーは、昔ながらの鉄製のものの他、アルミ製の小ぶりなものや、収納スペースにも困らない折り畳み可能なものがあったりと改良され、取り扱いがさらに便利になったようです。

「物を運ぶ」ということが暮らしの中にある限り、形を変え改良されながら残っていくであろう「リヤカー」の今後が気になるところです。

さて、今回は、この「リヤカー」でも販売されている秋の食べ物「さつまいも」をテーマにお送りいたします。

参考資料

コロナ禍で「リヤカー販売」が増加中…必要な許可や稼ぎは? | レスポンス(Response.jp)

https://blooming-days.njs.xyz/fmks

食品移動行商-1.pdf

https://blooming-days.njs.xyz/15qm

リヤカー – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/iv9m

リヤカーの歴史|WEBコラム|商品案内|杉田エース株式会社
https://blooming-days.njs.xyz/2vmc

【車屋四六】しぶとく生き残るリヤカー –

https://car-l.co.jp/2019/05/06/7248/

リヤカーとは (リヤカーとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

https://blooming-days.njs.xyz/g3zq

さて、本日の放送内容です。

「Food」in bloom-その1-

1943年(昭和18年)の今日11/1、節米を目的に全国主要駅の駅弁が一斉に芋弁当に切り替わりました。
節米とは、物資が不足していた戦時中において、食糧確保のために日本の代表的な主食である米をできるだけ節約すること。

当時の日本人の米の消費量は現在の約3倍、1人1日約3合、都市部では約三合半のお米を食べていたそうで、茶碗換算で9杯から10杯、1日3度、3膳ずつおかわりしていた計算になります。


多くの人を飢餓から救った「さつまいも」

安定して食料が供給されている現代では、なかなか想像もできませんが、これは、1939年(昭和14年)、閣議決定により、「戦場ノ労苦ヲ偲ビ 自粛自省 之ヲ実際生活ノ上二 具現スル」ため、戦争が終わるまで毎月1日を興亜奉公日とする旨が定められたことで、国民精神総動員中央連盟が、服装と食事は質素とすること、酒と煙草はやめることなど、8項目を設定しました。

この日の食事は一汁一菜、児童生徒には梅干し一個だけの日の丸弁当が求められ、酒類の販売も自粛されたために、バーや料亭などが休業し、繁華街のネオンも消えるような状態だったといいます。

当初推奨された日の丸弁当ですが、これでは米の消費量が上がってしまうということから、翌1943年(昭和15年)に節米運動が実施され、「この日だけはお米無しで生活しよう」に変更されました。

節米運動の一環として、米麦に代え、麺類や蕎麦などによる粉食やイモ類にするなどの代用食にすることや、七分搗き米に雑穀、豆類、芋や野菜などを混ぜて炊くなど、混食が推奨されましたが、節米運動は単に精神運動に過ぎず、当時の日本人にとってもお米はなくてはならい食材だったために十分な効果を上げることができませんでした。

やがて、こうした消費規制から食材の直接配給へと進みますが、配給となった食料は、量、質ともに十分とは言えず、人々は足りない食料の補充のために、ひそかに都市から農村へ買い出しに行っていました。

しかし、鉄道輸送も軍需が優先され乗客が制限されるようになると、日々の食事は非合法の闇取引がなければ成り立たないまでになっていました。

闇市で取引される闇米は、最大で公定価格の50倍に跳ね上がり、こうなると米の使い道は「節米」などという生易しいものではなく、わずかの米とダイコンの葉、芋の蔓、ジャガイモの欠片などの野菜屑を大量の汁で煮た雑炊が基本となりました。こうした食料事情は戦後さらに悪化し、日本がこの状況を脱するのは1949年(昭和24年)頃を待つことになります。

戦前の子どもたちのおやつといえば、甘味のある果物やさつまいも、各家庭で作ったまんじゅうや団子、おはぎなど伝統的なものの他、洋風のお菓子も普及し始め、都市部では店で売っているキャラメルやチョコレートなどが人気でした。

しかし、戦争が激しくなるにつれ、様々な物資が不足し、「ぜいたくは敵だ」のスローガンに象徴されるように、砂糖が配給制となり、やがてその配給も停止されると、子どもたちが甘味のあるおやつを口にする機会は極端に減りました。

そんな中、人々の飢えをしのいだのは、「かぼちゃ」や「さつまいも」でした。

「かぼちゃ」や「さつまい」も、じゃがいもは痩せた土地でも育てやすく、戦時中は多くの家庭で作られました。
特にさつまいもは、江戸時代から第二次世界大戦後まで、凶作や飢饉、戦時中など食べ物がないときに多くの人を飢餓から救いました。

さつまいもが日本へ入ってきたのは、17世紀初め。

中国から琉球にもたらされ、やがて薩摩へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ広まり定着したといわれています。
本州を中心にした地域では、伝来の経緯から当初「リュウキュウイモ(琉球芋)」「カライモ(唐芋)」またはその色から「赤芋」と呼んでいましたが、江戸幕府が薩摩藩から入手し、全国に栽培を奨励して以降は「サツマイモ(薩摩芋)」という呼称が普及しました。

西日本の大飢饉の折に、鹿児島で餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込める救荒(きゅうこう)作物として重要視されるようになり、飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、1735年、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(こいしかわおやくえん)などでさつまいもを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がりました。

第4次焼き芋ブームと言われている現在ですが、さつまいもの生産量は年々減少傾向にあり、1955年(昭和30年)に700万トンあった生産量が、昨年2020年(令和2年)には68.8万トンと、統計を取り始めて以来、過去最低の収穫量となりました。

戦中戦後、人々を飢えから救ったさつまいもは、今、私達が口にする「紅あずま」や「紅はるか」、「安納芋」といった甘みがあって口当たりがなめらかなものと違い、「沖縄100号」という「水っぽい大きないも」で、とにかくまずいと言われた品種だったようです。戦時中、たくさんのさつまいもを食べて、あまりいい印象を持っていない方が多い中、祖父は、大のさつまいも好きで、てんぷらにしたさつまいもを驚くほどたくさん食べていました。

戦時中のさつもいもの味を聞くことは出来ませんでしたが、平和になり、味が一段と美味しくなったさつまいもは、当時のものとは別の食べ物と思っていたのかもしれません。

参考資料

サツマイモ – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/s4bg

節米運動 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/41r3

「昭和の食の移り変わり~食卓を中心として~」の概要
https://blooming-days.njs.xyz/o9u1

2020年産サツマイモの収穫量は過去最低に。 | アグリの樹
https://agrinoki.com/archives/4361

「Food」in bloom-その2-

香ばしい香りとホクホクとした食感、ねっとりとした蜜の甘さがたまらない、冬の風物詩「焼き芋」。

リヤカーや軽トラに、引き売り屋台を乗せて移動販売する昔ながらの焼き芋屋さんは、最近あまり見なくはなりましたが、販売方法、製法、品種を代え、今でも焼き芋は、ブームとなっています。


江戸の庶民も大好きだった焼き芋

焼き芋とは、文字通り、焼いたさつまいものこと。

東アジア特有の食文化とされ、石焼き芋や壺焼き、かまど焼きなどがあります。
生のさつまいもは硬くて甘味がなく、消化もしにくい食べ物ですが、焼くことによって、適度な軟らかさと良好な食感、甘味、香りなどが得られ、美味しく食べることができます。

焼き芋は甘味や香りに加えて「10文も出せば、食べ盛りの書生でも朝食になる」と言われるほど、安価なことが大きな魅力であり、低コストな舟運(しゅううん)で輸送できる下総国(しもうさのくに)の馬加村(まくわりむら、現・幕張)および武蔵野台地の川越藩領が、原料のさつまいもの2大供給地となり、江戸に運ばれる荷物の梱包材として使用された俵や縄が調理の燃料として利用されていました。

寛政5年(1793年)に本郷四丁目の木戸番(きどばん)が、初の焼き芋を木戸番屋で売り出すと、冬のおやつとして急速に人気を集め、それまでの蒸し芋(ふかしいも)に取って代わるようになりました。
当時、焼き芋専門店はほとんどなく、江戸の庶民は、各町の出入り口に設けられた木戸の番人「番太郎」が売っている、かまどの上に載せた焙烙(ほうろく)に並べて焼いた焼き芋が、飛ぶように売れたそうです。

蕎麦一杯が16文の時代、焼き芋は1本4文だったといいますから、現在のお金に換算すると1本80円程度。
かなりお安い値段だったようです。

天保3年(1832年)の『江戸繁盛記』には「木戸番屋では早朝から深夜まで焼き芋が売られ、裕福な人も貧しい人も好んで食べるため、ひと冬で番屋一軒の売上は20両~100両にも達する」と書かれているほど、大人気な食べ物でした。

木戸番小屋に詰める番太郎は、治安維持のために町ごとに設置された木戸を開け閉めしたり、火の用心をするのがおもな仕事ですが、彼らは大抵が老人で、木戸に接した番小屋と呼ばれる粗末な家に住み、多くは非人身分であったといいます。

木戸番の給金はそれぞれの町内から支払われていましたが、その額は少なく、そのため、彼らは駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(あらもの:生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていました。特に焼き芋屋は番太郎の専売のようになっており、そのため、番太郎は本職より内職の方で知られ、木戸番屋は「商番屋」とも呼ばれていました。
24時間人のいる番小屋は、さながら、今のコンビニのようで、荒物を買う際に「番太郎で買ってこい」と子供をお使いに出す親もいたようです。

明治に入ると米の価格変動が大きいこともあって、安定した低価格で供給される焼き芋は、下町の低所得層などにとって、冬季の主食にもなり、さらに需要が増しました。
これら専門店は、秋から春にかけて焼き芋を、夏季は明治に登場した製氷機を用いたかき氷などを販売し、1900年には東京府に1,406軒の焼き芋屋が存在したそうです。

大正に入ると、低価格の洋菓子が供給されるようになり、おやつとしての焼き芋の地位が低くなる一方、中国東北部から上海を経由して関西地方に伝わった壺焼き芋、ならびに昭和初期に誕生した大学芋が急速に人気を得て、従来のかまどを用いた焼き芋に取って代わり、1930年代には東京府内の壺焼き屋が500軒以上にのぼった、といわれています。

しかし、太平洋戦争開始後の、1942年に、「食糧管理法」が制定されると、さつまいもは統制品となり、焼き芋屋のほとんどは休業、ないし廃業しました。

終戦後の1950年に、さつまいもが統制の対象外となると、伝統的なかまどや壺を使わず、リヤカーに鉄製の箱型釜と石を載せて移動販売する「石焼き芋」が向島で登場します。

重量があるため、特注のリヤカーが使われ、1960年代半ばの最盛期には、東京都の販売員は、冬季の出稼ぎに来た人々を中心に、1,000人以上に達したと言われています。

その後、軽トラックに石焼き釜を載せる形式が主流になっていき、1970年の大阪万博を機に、ファストフードのチェーン店が増加した影響などを受け、石焼き芋屋は、減少していきます。

最近ではスーパーなどで売られるようになった石焼き芋。

明日11/2からは、ローソンが全国3000店舗で焼きいもの店頭販売を始めるようです。
甘みを引き立たせるため、収穫後45日間貯蔵庫に保管・熟成させたものを、専用オーブンでじっくり焼き上げ、「しっとりとした食感と、甘みのある焼きいもに仕上げている」とのこと。

進化した美味しい焼き芋は現代の「番小屋」コンビニでも買えるようです。

参考資料

焼き芋 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/wcwl

木戸番 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/j6zf

番太 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/pxkj

「Food」in bloom-その3-

「干し芋」は、さつまいもを蒸して乾燥させた食品のこと。

日本の全国各地で作られていますが、産業としては総生産量の約9割が茨城県で生産されています。
もともと「煮切干(にきりぼし)」という製法で製造されたものでしたが、後に「蒸切干(むしきりぼし)」という製法が一般化しました。

一般的には「干し芋」と呼ばれていますが、正式名は「甘藷蒸切干(かんしょむしきりぼし)」。
ほかに「乾燥芋(かんそういも、かんそいも)」「きっぽし」「いもかち」などと呼ばれることもあります。
また、日露戦争で野戦食としても活用され、「軍人いも」とも呼ばれました。


「干し芋」のルーツと変遷

大きさはさつまいもによって様々ですが、一般的に店頭で販売されているものは一片が長さ10 ㎝- 15cm、幅5cm程度の細長く薄い板状をしている「平干し」と呼ばれるもので、薄切りにしないまま干した「丸干しいも」と呼ばれる長さ10cm、直径2 – 3cm程度の棒状のものもあるほか、近年は食べやすいように角棒状に細切りにした商品も出回っています。

適度な水分を含むため、粘度のある噛み応えとさつまいもらしい甘味が特徴的で、そのまま生で食べてもおいしいですが、火であぶると柔らかくなり甘味も増し、また表面を軽く焦がすことにより香ばしさが生まれます。

干しいもの発祥は静岡県御前崎市(おまえざきし)と言われており、御前崎沖で薩摩の船が遭難した際、船乗りたちの命を助けたお礼にさつまいもを譲り受けた事がきっかけでさつまいもを栽培するようになり、それから60年後の1824年、御前崎の近くに住んでいた栗林庄蔵(くりばやし しょうぞう)が「煮切干」での製造を思い付き、大変に評判がよかったことから、近所の農家も競って作るようになったと言われています。

1892年頃には静岡県の大庭林蔵(おおば りんぞう)と稲垣甚七(いながき じんしち)が「蒸切干」の製法を実用化し、今日(こんにち)の干し芋が誕生しました。

需要が伸びたのは、

・煮炊きの必要がなく、いつでもどこでも食べられる
・携帯に便利、作業しながらでも食べられる
・腐る心配がなく、保存に適している
・適当な甘さがあり、カロリーも多い

などからで、大正時代に入ると、生産は静岡県全体に広がりました。

その後、1908年に静岡県から茨城県那珂湊(なかみなと)に製法が伝わり、原料のさつまいもに適した土壌だったことや、冬の乾燥した気候が生産に適していたことから茨城県での生産量が増加。

特に、現在のひたちなか市にあたる前渡村(まえわたりむら)の大和田熊太郎は、村長兼農会長として干し芋の普及にあたり、当時、財政が破綻し、村の中に対立、抗争があった この村の立て直しを図るために、干し芋製造を柱とし、静岡から干し芋の製造法の講師を招いたり、村の中で講習会を開くなど、熊太郎の熱意と努力によって、干し芋の生産は年を追って増大しました。

この地域の農民は、熊太郎たちの勧めもあって、干し芋、スイカ、大麦・小麦などの換金作物を作るようになり、畑作物を作り、現金支出を抑え、お金を蓄え、手放した農地を買い戻す人も出てきました。

こうして、干し芋生産は前渡村を中心に周辺の町村に広がっていき、1933年に県内の干し芋製造戸数は2,350戸、生産数量は3,260トンにまでなりました。

しかし、戦争が激しくなるにつれ、さつまいもは主食に回され、戦争末期には干し芋製造は事実上禁止されてしまいました。

敗戦から5年後、経済の統制が撤廃され、干し芋の生産が始まると、静岡では1950年に戦前水準の7000トンにまで復活しますが、1953年の7,875トンをピークに生産量は年々減少し、1955年には静岡と茨城の地位は逆転し、茨城県が総生産量で首位となりました。

2008年の統計では、全国の生産額は70億円で、そのうち茨城が69億円、三重が1億円と、茨城が圧倒的なシェアを持っています。

干し芋発祥の地であった静岡ですが、干し芋の生産を温室メロンやイチゴ、花の栽培に切り替えたため、現在ではごくわずかしか作られていないようです。
少し寂しいような気持ちになります。

参考資料

干しいも – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/9icb

干しいもの歴史 ほしいも学校
https://www.hoshiimogakko.com/history.html

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

見るラジオ

今回は、長野県松本市の観光名所「上高地」を散策しながらラジオを聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、下記のものを使用させていただいています。

動画について

■ 上高地の霜降る紅葉を散策【Travel ASMR】
@旅の音 Tabinone

https://www.youtube.com/watch?v=p3FLp2ip0Gk

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

Within These Walls by Andrew Word
https://artlist.io/song/73481/within-these-walls

Between Me and You by Samlight
https://artlist.io/song/73483/between-me-and-you

Blue Water by Oliver Michael
https://artlist.io/song/72767/blue-water

Waste Our Time – Alternative Version by Jane & The Boy
https://artlist.io/song/71553/waste-our-time

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