Blooming Days,Sep’13 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Sep’13

  • PODCAST

    ※アプリをインストールしてお聞きください。Spotify Freeはずっと無料のプランです。 期間限定でもなければ、登録にクレジットカードも必要ありません。 放送後記
  • facebook

  • Twitter

関東地方では、秋雨前線の影響からか、雨模様の天気が多かった一週間でした。
通勤の途中では、涼しい風の中に、金木犀の甘い香りを感じるようになり、秋の訪れを知らせてくれているようです。
金木犀は、モクセイ科の常緑性樹木で、原産地の中国では、その香りが「千里先まで届く」ともいわれています。
春のジンチョウゲ、初夏のクチナシと並び、秋のキンモクセイは「三大香木」と呼ばれ、季節の移り変わりを感じる花として古来より庭木としても親しまれてきました。

開花の時期は、9月下旬から10月にかけて。
花が開いてる期間は大変短く、一週間程度と言われます。
残暑はあるものの、これから日一日と秋が深まっていき、あっという間に落ち葉が風に舞う季節になりそうです。

さて、今から189年前の今日9/13は、江戸時代後記の盗賊「ねずみ小僧」が、市中引き回しのうえ獄門に処せられた日です。

ねずみ小僧の異名は、鼠のように身軽にどこにでも出没したからと言われ、十年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだお金は三千両余りとも言われています。
大名屋敷だけに忍び込み、盗んだお金を貧しい庶民に分け与えたとして、芝居や講談では「義賊」として描かれています。
しかし「弱い者のために盗みを働く盗賊」というのは実際とは異なり、ねずみ小僧のモデルとなった人物は義賊とはほど遠い存在だったようです。

今日は、そんな「江戸時代の大泥棒、ねずみ小僧」についてお送り致します。

さて、本日の放送内容です。

「Life」in bloom-その1-

ねずみ小僧は、江戸時代後期の盗賊。

本名は次郎吉(じろきち)。

鼠小僧次郎吉として知られています。

寛政9年(1797年)、歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)、カヤの長男として、新和泉町(しんいずみちょう:現在の日本橋人形町)に生まれました。

弟と妹が一人ずつ有り、母の妹も同居していたようです。


ねずみ小僧の生涯

次郎吉は、10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16の時には生家に戻り、建具職人として手間賃を稼いでいたといいますから、手先は器用だったようです。

ところが、手に職がありながら、どういういきさつか、町火消「ろ組」の頭の世話で
鳶人足となり、そこで悪い遊びを覚えたことがきっかけで、酒と博打で身を持ち崩し、25歳の時には父親から勘当されるという憂き目にあいました。

勘当とは、親が子に対して親子の縁を切ることをいい、人別帳(にんべつちょう)から外され、家督・財産の相続権の剥奪、罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは、連坐から外される事になっていました。

復縁する場合は、帳付け(ちょうつけ)を無効にする帳消しが行われ、これが現在の「帳消し」の語源となっています。

また、人別帳に「旧離(きゅうり)」と書かれた札を付ける事から、「札付きのワル」という言葉も生まれました。

人別帳から外され無宿となった次郎吉は、行く当てもなく、悪の道へと深入りし、勘当から2年後、博打の種銭(たねせん)稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと言われています。

以降、武家屋敷の奥向(おくむき)に忍び込むこと、28箇所32回に及び、盗んだお金は750両余り。

その頃の一両といえば、お米一石(約150kg)以上買えたといいますから、現在の価値に換算すると5,000万円近くの盗みを働いたことになります。

盗みを始めて3年後の文政8年(1825年)、次郎吉は土浦藩 上屋敷に忍び込んだ所を捕えられ、南町奉行所の尋問を受けます。

ところが、取り調べの際、盗みが初めてであることを自ら自供し、取り調べ側も証拠を見つけられなかったのか、初犯であることを考慮されて刺青の刑罰、追放刑に処され、命だけは助けられました。

その後、一時は上方へ姿を消したものの、江戸に密かに舞い戻り、父親の住んでいる長屋に身を寄せますが、博打の種銭欲しさに、またもや盗人稼業を始め、以後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込み、盗みを繰り返していました。

次郎吉が大名屋敷を狙ったのは「盗みに気付いても自尊心が強くて幕府からの追及を受けたくない大名家はそれを公にしないこと」が好都合だったのと、「屋敷内部が広くて警備に穴が多く、外部さえ突破すれば容易であること」と「屋敷の奥が金の保管場所で、しかもそこには大抵女が多くて逃げやすいこと」など好条件が揃っていたためだといいます。

天保3年(1832年)6月3日、次郎吉は、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷に盗みに入ったところを再び捕えられました。

その場で斬り殺そうとした松平家の中間(ちゅうげん)に対し次郎吉は、

「盗みに入った屋敷では、その責任をとって切腹した人もいる。金銀が紛失したので疑われている人も多い。奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい。」と、ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれと願い出たといいます。

松平家も幕府に届けると、その後の手続きが面倒になるため、奉行所に連絡して、門前から次郎吉を追い払ったところを、待ち受けた同心の大八木七兵衛が捕縛したそうです。

捕まったときは、ろくな家財道具もなく金もなかったことから、盗んだ金のほとんどを生活に困窮していた庶民などに恵んでいたとされ、このような行為が、後年、次郎吉を「義賊」として持てはやすことになったと言われています。

北町奉行書の取り調べを担当した役人は、調べれば調べるだけ出てくる次郎吉の余罪に呆れ果て、途中で取り調べを打ち切ったと言われています。

これは、ほとんどの大名家がねずみ小僧の被害を受けており、取り調べればその大名家にも咎(とが)が及ぶことになり、大名家の威信を守るためと罪が及ぶことで政治問題化することを恐れて打ち切ったとも言われています。

3ヵ月後の9月13日、市中引き回しの上での獄門の判決が下されますが、引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで、既に有名人であったねずみ小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せたといます。

市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みすぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であったねずみ小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧の口紅姿だったようですが、次郎吉は、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えていたそうです。

引き回しが日本橋3丁目あたりに来た時、路上で二人の女が次郎吉に目礼したといいます。

次郎吉が世話をした情婦ともいわれています。

5尺足らず(約151センチ)程度の小柄で小太り、丸顔だった次郎吉は、小塚原刑場にて処刑されました。

享年36歳。

辞世の句は、「天(あま)が下(した) 古き例(ためし)は 白浪の 身にぞ鼠と 現れにけり」。

先人たちの例にもれず、私が盗賊の鼠小僧次郎吉であると、世間中に知れ渡ってしまったなあ

この辞世の句は、処刑される直前に、ねずみ小僧が自ら詠んだものとされ、『天保雑記(てんぽうざっき)』に記録されています。

「Life」in bloom-その2-

ねずみ小僧というと、「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」として、庶民の味方である「義賊」であったとも言われています。


ねずみ小僧は「義賊」だったのか?

この噂は、江戸では、彼が捕らえられる9年も前から流れており、たった一人で
武家屋敷に潜入し、10年以上捕まることなく武家屋敷から金銭を盗んでいたということで、江戸では有名な存在だったようです。

次郎吉が捕えられた後も、盗まれた金銭がほとんど発見されなかったことや、傍目から見ると次郎吉の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから、盗んだ金の行方について噂になり、このような噂がさらに広まったものと考えられています。

しかし、残されているねずみ小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。

こうした義賊であるというねずみ小僧の人気を作り上げていったのは、幕末から明治にかけて、名人とも言われ、明治初期にかけて大いに人気があった講談師二代目 松林伯圓(しょうりん はくえん)だったと言われています。

「鼠小僧」「業平小僧」「天狗小僧」「獄門初の助」「鬼神のお松」などの白浪物を得意としたため、「泥棒伯圓」の異名を持ちます。

これに触発された歌舞伎 狂言作者、河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ)が、歌舞伎用に仕立てたのが、「鼠小紋東君新形」(ねずみこもん はるの しんがた)で、安政4年(1857年)江戸 市村座で、時の名優、四代目 市川小團次(いちかわ こだんじ)によって上演されると、またたく間に人気となり、100日あまりのロングランを続けるほどの大評判となりました。

また、小説では芥川龍之介、直木賞の元になった直木 三十五(なおき さんじゅうご)、股旅小説を初めて考えた長谷川 伸(はせがわ しん)、吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ)、菊池寛(きくち かん)といった有名作家がねずみ小僧をモチーフにした小説をかいています。

元は噂話であった義賊の話が、講談、歌舞伎によって一段と真実味を増し、虚像と実像とか混合されるようになりました。

実際の次郎吉はというと、小心者の職人風の男で、なかなか捕まらなかったのはその用心深さからと言われており、決して大金は盗まなかったといいます。

山下 昌也(やました まさや)の『実録 江戸の悪党』によると、

必要以上の大金を盗まなかったのは、捕まったときの用心で、金がなくなるまで盗みを働かなかった。不自然な大金が見つかると証拠になるからである。当然、深い付き合いもできるだけ避けて、プライバシーを守った。親しい仲間ができ、棲家が知られ、家に遊びにくるようになると棲家を変えた。女房だって四人いて、その家を転々としていたのだ。それも金で買った飲屋の女である。名前も治三郎(じさぶろう)、次兵衛(じへい)などと使い分けていた。

盗んだお金を庶民に分け与えたことはなかったものの、子供の頃から親しんだ芝居の世界には思い入れがあったようで、困った芝居関係者には施しをしていたらしく、そのため、次郎吉が処刑された日は芝居が中止になったと言われています。

ねずみ小僧次郎吉の墓は、両国の回向院(えこういん)にあります。

回向院は明暦3年(1657年)、10万人を超える被害者が出た「明暦の大火」をきっかけに、幕府によって建てられましたが、当時は「寺院法度」という決まりにより、罪人にお墓を建てることができませんでしたが、無縁寺(むえんじ)である回向院は「生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」という理念に基づき、罪人の亡骸も受け入れていたそうです。

ねずみ小僧次郎吉が処刑された後、晒されていたねずみ小僧の首を何者かが盗み、葬ってもらうために回向院まで持ってきたと言われています。

困っているときに助けてもらった芝居関係者だったのでしょうか?

現在あるお墓は、のちに歌舞伎の関係者が建立したものだそうです。

ほかにも愛媛県松山市、岐阜県各務原市(かかみがはらし)にも墓があり、これらは義賊次郎吉に恩義を受けた人たちが建てた墓と伝えられています。

「Life」in bloom-その3-

江戸時代には、ねずみ小僧や石川五右衛門など、私達がよく耳にする泥棒以外にも、市松小僧や稲葉小僧、葵小僧など、ねずみ小僧と同じように小僧と名がついた泥棒が何人もいたようです。


ねずみ小僧と並び称される「田舎小僧」について

その中でもねずみ小僧と並び称される「田舎小僧」という泥棒がいました。

田舎小僧は、名を新助と言い、武州足立郡新井戸村(あらいどむら)(現在の埼玉県川口市)の百姓・市右衛門(いちえもん)の息子として生まれました。

明和元年(1764年)に15歳になった新助は、神田明神下 同朋町(かんだみょうじんした どうぼうちょう)の紺屋(こうや)・佐右衛門(そうえもん)方へ年季奉公に出て、10年の年季が明けた安永2年(1773年)、下谷 坂本(したや さかもと)2丁目の又兵衛家で奉公を始めますが、安永5年(1776年)12月6日、3分2朱(さんぶにしゅ:または3両2朱)の金を盗み逐電。

同月10日、金杉村(かなすぎむら)で同様に盗みを働こうとしたところを村人につかまり、
寺社奉行太田 備後守(おおた びんごのかみ)のもとに引き渡されて入牢。

入墨の上、敲放し(たたきばなし)の処分を受け、親元へと帰されました。

新助は入墨を灸で焼き消し、故郷で紺屋の手間賃稼ぎなどをしていましたが、素行の悪さは直らず、天明元年(1781年)に勘当されました。

その後、しばらくは、棒手振り(ぼてふり)や日雇い仕事などをして真面目に暮らしていましたが、3年後また江戸に舞い戻り、泥棒稼業に手を染めるようになりました。

新助は、天明4年(1784年)3月から同5年8月までの間に、武家屋敷・寺院・町家などを標的に24ヵ所、計27回の盗み働きをし、金や小道具類や衣類反物を盗み、それらを売り、手に入れた金は遊女を買ったり、博打を打ったりして使ったといいます。

大名屋敷への侵入ルートは、ねずみ小僧と同様、屋敷の表門近くから、塀、屋根を乗り越え、屋敷内に侵入したようです。

大名屋敷の表門付近は、武士、商人の出入りが多く、かえって目立たず、門をくぐらずに素早く屋根伝いに侵入すれば、簡単に忍び込むことができたといいます。

天明5年(1785年)8月16日、一橋邸に侵入しようとして夜回りの中間(ちゅうげん)に捕らえられ、10月22日、老中・松平 周防守(すおうのかみ)康福(やすよし)の指揮の下、市中引き回しの上、小塚原で処刑されました。

田舎小僧にまつわる話の多くは、ほぼ同時期に実在した稲葉小僧の逸話と混同されたものが多く、
三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)によれば、稲葉小僧と田舎小僧、両者は別人だが、語呂が似ていることや盗賊として活動していた時期が近かったことから、「稲葉小僧新助」という1人の泥棒に仕上げられてしまったと書いています。

杉田玄白の『後見草(のちみぐさ)』には、天明5年の春から秋にかけて噂になった稲葉小僧という盗賊が、同年9月16日に一橋邸で捕らえられ、この盗賊は武蔵国入間郡出身の新助という34歳の男で、片田舎に生まれたことから田舎小僧の異名を持っていたのが、聞き間違いから稲葉小僧と呼ばれるようになったと書かれています。

捕まるまでの期間が2年と、ねずみ小僧の10年に比べて短かく、盗んだ金額も少なかったこともあってか、市中引き回しの際には、ねずみ小僧のように、美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をしたということはなかったようです。

参考資料

鼠小僧 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/g0nh

鼠小僧次郎吉 – Enpedia
https://blooming-days.njs.xyz/2du4

あの“鼠小僧”はそんなにイイ奴じゃなかった? 江戸のヒーローの本当の姿とは
https://getnavi.jp/book/177464/

松林伯圓 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/3v05

鼠小紋東君新形 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/ruyr

田舎小僧 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/i5w9

稲葉小僧 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/dpri

盗賊・田舎小僧 – 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義
https://blooming-days.njs.xyz/o4e9

義賊・鼠小僧次郎吉 – 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義
https://blooming-days.njs.xyz/moo2

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

見るラジオ

今回は、イタリアのアマルフィの街中をドライブしながらラジオを聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、下記のものを使用させていただいています。

動画について

■Amalfi Coast Drive || Italy 4k Random 4k Clips No Copyright Footage
https://www.youtube.com/watch?v=B9__tuUwYAQ

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

It Blows My Mind by Assaf Ayalon
https://artlist.io/song/36284/it-blows-my-mind

Piggyback by Dan Pundak
https://artlist.io/artist/1321/fiona-harte

Moonlight (ft. Marle Thomson) by Anthony Lazaro
https://artlist.io/song/68635/moonlight-ft-marle-thomson

Still All Alone by Kyle Cox
https://artlist.io/song/61871/still-all-alone

Super Music Wide