Blooming Days,Sep’06 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Sep’06

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9月に入り、蝉の声よりも、コオロギや鈴虫の声を耳にする機会が多くなりました。

まだまだ暑い日は続きますが、コスモスやススキ、色づく稲穂を見ると、夏は終わってしまったのかなと少しさびしい気分になります。
雨の日が多かったせいか、今年の夏は短かったように思います。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、花火大会など夏らしいイベントが少なかったことも理由かもしれません。

数日前のニュースで、廃業の危機にある打ち上げ花火屋さんが、個人からの依頼に応じる「プライベート花火」をはじめたという話題を目にしました。
コロナ禍の前には、夏だけで100件以上あった花火大会の打ち上げ依頼が、去年はわずか5件。
今年も軒並み中止が決まり、15人いた従業員全員を解雇や休職扱いにせざるを得なかったといいます。

そんな状況を打開しようと、個人からの依頼に応じる「プライベート花火」を始めたのが、埼玉県秩父市にある大正元年に創業した老舗「金子花火」。
45発で5万円から受け付けているそうです。
苦境に立ち向かう花火屋さん、なんとか応援したいものです。

さて、先週火曜日のココラジの放送で取り上げた宿題の話題。
小学生の時に作ったちぎり絵が予想以上に大変で苦労をしたという思い出をお話しました。
ちぎり絵といえば、「放浪の天才画家」山下清。
テレビドラマ「裸の大将放浪記」でもおなじみですが、緻密で色鮮やかな作風のちぎり絵は「日本のゴッホ」と称されることもあります。

軽い言語障害と知的障害を持ち、預けられた施設で始めた ちぎり絵が高い評価を得るようになりましたが、ある日、施設を脱走してリュック1つ背負って、15年間もの放浪の旅に出ます。

旅先で見た光景を、施設や実家に戻って描き、また自由を求めて旅に出るという生活を送りました。
山下清は、大変な花火好きで、「長岡の花火」など、花火を題材にしたちぎり絵をいくつも残しています。

彼は、49歳の若さでこの世を去りますが、最後の言葉は「今年はどこへ行こうかな。 諏訪湖の花火がいいな」だったそうです。

今日は、そんな「放浪の画家 山下清」についてご紹介致します。

さて、本日の放送内容です。

「Life」in bloom-その1-

「裸の大将」でも知られる画家・山下清は、1922年(大正11年)3月10日、現在の東京都台東区に、父・大橋清治(きよはる)、母・ふじの長男として生まれました。

翌年の関東大震災で焼け出され、両親の郷里である新潟県新潟市に転居しますが、その2年後の3歳の頃に、風邪から重い消化不良を起こし、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患いました。


山下清についてのお話-その1-

1928年(昭和3年)、清が6歳のころ、一家は浅草に戻り、清は浅草の石浜小学校に入学、その後、正徳小学校に転校しますが、他人と一緒に遊ばぶことはせず、遊ぶときには一人で遠くに行き、虫をとっては絵を描くような子供でした。

1932年(昭和7年)、父・清治が他界し、母方の姓「山下」となりますが、この頃から、知的な遅れが目立つようになり、軽い言語障害があった事も相まって、級友からのいじめもひどくなっていきました。

友達をつくることができなかった清は、ついには、鉛筆削り用の小さなナイフを振り回して級友に大怪我をさせるなど、学年が上がるにつれトラブルが増えるようになりました。

「人が僕をばかにして、色々なことを聞いたり、自分の家に居た時の事を聞かれたり、変な事ばっかり聞かれたりするので、僕はすぐ腹がたって相手をなぐる。相手は五、六人以上むかって来て、僕は幾ら頑張ってもかなわないので、ないふをふり回せば相手は逃げてしまうと思って、ないふは いいけんかの武器だと思ってしまいました」

と日記に綴っています。

1934年(昭和9年)5月、12歳の清は、千葉県市川市の知的障害児施設 八幡学園(やわたがくえん)に預けられ、この学園での生活で「ちぎり絵」に出会います。

ちぎり絵との出会いを清は次のように書き残しています。

「僕は学園へ来てから 色紙で絵を貼るのは初めてで 色紙で絵を貼るのは珍しく思って居ました」

入園後もしばらくは突然の暴力があり、また、他の子どもの衣服をどぶに捨てたり、果物を近くの畑から盗んできたりと問題が絶えませんでしたが、清はとても臆病な面も持っており、特に戦争や爆撃、お化けや鳥の羽を怖がり、ちょっとおどされても蒼くなって震え上っていたといいます。

学園での生活を送るうちに、清の殘忍で過激な行動はなくなりましたが、臆病な性格はなかなか治らなかったようです。

1937年(昭和12年)秋、八幡学園の園児たちの貼り絵に注目した早稲田大学講師戸川 行男(とがわ ゆきお)により、早稲田大学で小さな展覧会が行われたほか、1938年(昭和13年)11月には、同大学の大隈小講堂にて「特異児童労作展覧会」が行われ、清の作品も展示されました。

そして1938年(昭和13年)12月に銀座の画廊で初個展を開催、翌1939年(昭和14年)1月には、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びました。

安井 曾太郎(やすい そうたろう)と洋画界二大巨匠とされた梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)は、山下清の作品について

「社会人としての面を問題にせず、作品だけからいうと その美の烈しさ(はげしさ)、純粋さはゴッホやアンリー・ルッソーの水準に達していると思う」と語っています。

八幡学園での在籍期間は長かったものの、第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)の18歳の時に、突如学園を脱走し、1940年(昭和15年)11月18日から1955年(昭和30年)6月までの15年間、数ヶ月放浪しては突然実家や学園に帰ってくるという生活を繰り返しました。

放浪中、清は、道に迷わないよう線路を歩き、追い出されることの少ない小さい駅を見つけ、もっぱら駅の待合室を寝床にすることが多かったようです。

几帳面な性格で、日に駅3つ分の移動を目標とし、お腹が空けば民家を訪ね、「亡くなった母が、困ったときは親切な人におにぎりを分けてもらえと言ったから」などと嘘をつきながら食いつなぎ、施設の職員に連れ戻されたり、あるいは自分で戻ってくることもあったようです。

脱走から2年後の1942年(昭和17年)、20歳になった清は、徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続けました。

千葉県我孫子市の我孫子駅 売店『弥生軒』にて住み込みで働いていたのもこの頃で、半年ごとに放浪しては千葉に戻ってくる事を5年ほど繰り返したといいます。

当時の『弥生軒』は駅弁の製造・販売を行っており、後に清は弁当の包み紙のデザインも担当しました。

この『弥生軒』は、常磐線のJR我孫子駅の駅構内にある駅そば屋『弥生軒』として現在も営業しており、お店には「僕が働いて居た所です あじは、いかがですか」という直筆メッセージが掲げられています。

ちなみに、我孫子駅の『弥生軒』といえば、どんぶりを覆うほどの大きなサイズが特徴のからあげがのった「唐揚そば」が有名で、これまでテレビや雑誌などで何度も取り上げられ、わざわざ遠方からこれを食べるためだけに 訪れる人も多いそうです。

どんぶりを覆うほどの大きな唐揚げって、いったいどのくらいの大きさなのか、近いうちに確認しに行ってみたいと思っています。

「Life」in bloom-その2-

18歳ではじめて放浪の旅に出た山下清は、その後15年にわたり放浪を繰り返しますが、そのほとんどが徒歩での移動で、日本の五分の一を歩きとおしたといわれています。


山下清についてのお話-その2-

ドラマの中では、放浪の旅先で絵を描き、その絵を置き土産にプレゼントするという描写になっていますが、実際には放浪先で貼り絵を制作することはほとんどなく、風景画はほぼすべて、学園や家に戻ってから記憶をもとにして描かれ、カメラはおろか、スケッチブックすらも持たないほとんど手ぶらの旅でした。

しかし、完成された作品は、その土地を知る人なら たちどころに場所が特定できるぐらい 正確なもので、例えば1949年に制作された「トンネルの風景」は、茨城県と福島県の境の「勿来(なこそ)の関」近くのトンネルを描いたものでしたが、清自身は地名に関することは覚えておらず、たまたま地域の出身者が作品を見て判明したもので、「勿来の関」近くのトンネルの写真を見ると、構図はもとより色合いまでぴたりと一致しています。

そんな放浪の旅を続ける清でしたが、1953年(昭和28)年、アメリカの雑誌『ライフ』が、異国の放浪画家を探しはじめたことから、朝日新聞が全国の支局を通じて 清の捜索に乗り出しました。

翌年には朝日新聞に捜索記事が掲載され、1954年(昭和29年)1月、清はひとりの高校生の通報により、桜島をのぞむ海岸付近で発見されました。

その後、1956年(昭和31年)に開催された東京・大丸百貨店での「山下清展」は大反響を呼び、入場者は80万人を超えました。

これを境に、清は長年の放浪癖に終止符を打ち、3年後には弟家族と同居することになり、裸の大将の自由な放浪生活は幕を閉じました。

「芸術新潮」1955年9月号「初めて絵を売る」の中で、清はこのように語っています。

「他の仕事をやったら、他人に笑われるばっかりの僕だが、絵のことなら笑われない。・・・・僕は絵の学校に行ったわけでもないし、絵の理論というようなことも解らない。ゴッホとピカソの他には、絵かきの名前も知らない。展覧会も見たことがない。それでも、僕の絵をおもしろいといって下さる人がいて、僕の絵を買ってくれる人がある。・・・・いままでは好きだから描いていたのだが、これからは、どんなに苦しいことがあっても、がまんして描いて行きたいと思ってます。」

この年、記録映画「はだかの天才画家山下清」(日本映画新社)が公開され、さらに全国約50ヶ所での「山下清展」、翌1957年(昭和32年)には東宝映画「裸の大将」が封切られ、山下清はいっそう有名人となりました。

清は、当初は映画化された「山下清」と自分とのギャップに戸惑っていましたが、自分がどのようにみられているかを知った上で、周囲が喜ぶようにわざと面白いことを言っていたといいます。

自宅での清は、置物の場所が自分の決めた位置から少しでもずれていたら直し、起床や食事、就寝の時刻もきっちり守るなど、とても几帳面でした。

ある時、犬の散歩は30分くらいがいいと医者から聞いた清は、正確にその時間を守り、20分ほどで散歩が終わってしまった時は、家の前で30分になるのを待ってから家のなかに入っていたそうです。

作品の制作時間も細かく自分で決めており、傍らに人がいようと全く意に介さない集中力で、根気よく作品を仕上げていきましたが、自分で決めたことが予定通りに進まないときは機嫌が悪くなったといいます。

清は、知的障害者といわれていますが、逃げ出す計画をたて、嘘をついて放浪を始めたり、徴兵検査で、目が悪いふりや耳が聞こえないふり、字が読めないふりをする、空腹時には嘘やデタラメを言って食事の施しをうけていた、ということを考えると、清の知的能力は低くはなかったと言われています。

また、テレビのバラエティー番組に出演する際には、家族に服装のセンスや持ち物がおかしくないかどうか確認したり、番組が終わってからも、自分の話し方・内容を家族に確認して、指摘されるとどこがおかしかったのか納得するまで聞き入ったといいますから、幼少期に多く見られた対人関係でのトラブルは成長とともに減少し、一方で「良好な発達」は増えていったと言えます。

1961年(昭和36年)6月には、式場 隆三郎(しきば りゅうざぶろう)らとともに、約40日間のヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残しました。

「ぼくは動物園がすきなので、もっとここにいたかったのに、まだいくところがあるから はやくいこうといわれて、自分のみていたいものは人がおもしろくなく、人のおもしろいところは ぼくにはちっともおもしろくないので、人はすきずきで、自分のすきなものだけ みてあるくには、ひとりで放浪するのがいちばんいい。」

テレビ番組への出演、映画の放映、作品制作など多忙な日々が続いていましたが、晩年は、東京都練馬区谷原(やはら)に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行にも出掛け、およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺しています。

しかし、1968年(昭和43年)、清は高血圧による眼底出血を起こして倒れ、以後は制作活動を制限し、自宅で療養生活を続けていました。

1971年7月10日、山下清は脳出血で倒れているところを発見され、翌々日に息を引き取りました。

49歳の若さでした。

最後の言葉は「今年はどこへ行こうかな。 諏訪湖の花火がいいな」だったといいます。

「Life」in bloom-その3-

山下清の貼絵作品のほとんどが、紙面いっぱいに色紙が貼りこまれています。

清の貼絵作品は、完成まで大抵2週間程度かかったといいますが、日記と同様、絵にもその裏に克明)に制作の日付を書き入れていました。


山下清についてのお話-その3-

例えば、1954年(昭和29)に制作した「桜島」は、完成まで25日間かかっており、絵の裏には作業した日付のほか、作業した時間まで分単位で記されていました。

これによると、かかった時間は5日と6時間45分。

清は、絵の制作時、簡単な下書きをするのみで、端から淡々と色紙を貼りあわせていき、紙の上に既に完成した絵が見えているのではないかと思うほど、迷いがなかったといいます。

清は日記の中で、「放浪で見物したのは絵にするためではなく、きれいな景色や珍しいものをみたかったから。気に入った景色は何ヶ月もたってからゆっくり思い出して絵にした」と述べています。

1949年(昭和24年)頃より、清は生涯で十数点である油絵の制作に挑戦し、1956年(昭和31年)からは、フェルトペンによる素描もはじめます。

描き損じない表現には、やはり紙の上に既に完成した絵が見えているようであったと言います。

しかし、そんな清は人物を描くことが苦手でした。

清自身もそれを認めており、その理由を尋ねられると「人物は景色とちがって いつまでもじっとしてくれないので、かきにくい」と答えています。

清の絵の中に登場する人物のほとんどはパターン化され、細密度を増した風景が描かれる晩年になっても、そのパターンは変わりませんでした。

作品の中には自画像もありますが、清は「自分の顔だからあまりみっともなくかかないようにしようと思っても、鏡をみてかいているうちに自分の顔だということを忘れて、景色をスケッチするときと同じように 自分が感じたままかいてしまうので、できあがった「自分の顔」をみると 大ていこわい顔になってしまう」と述べています。

幼いときから友だちとは遊ばず、いつも虫や蛙と戯れるようにしていたという清は、泣くことがなく、笑うことも苦手だったと言います。

山下清研究家の式場俊三(しきば しゅんぞう)は、手記「清残影」でこう記しています。

清の終生変わらなかった「悲惨」への回帰を想う。
清は学童生活によって、はじめて自分の孤独を思い知らされた。それまでは母や肉親のカバーによって小さな世界で安住していたわけだが、学童たちに容赦はなかった。
彼はここで「辛さ」に たえねばならぬ事を覚えた。
「悲しさ」は 情緒という時間が洗い流してくれるだろうが 「辛さ」に対抗するには怒りしかない。
多勢に無勢、憤りを発することのできない清は、非情の沈黙のなかに逃げこむしかなかった。
喜びも悲しみもない空白の世界である。
彼に哀楽の表現のないのは 致し方ないことだった。
山下清の世界は「辛さ」を代償にして かちえたものだった。

参考資料

山下清 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/bask

画家・山下清の素顔について考える 後編 | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK

https://blooming-days.njs.xyz/au96

山下清と自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)に関する検討( fulltext )
https://core.ac.uk/download/pdf/33468577.pdf

「プライベート花火大会」苦境の花火師が再起の策(テレビ朝日系(ANN)) – Yahoo!ニュース
https://blooming-days.njs.xyz/nodx

■書籍■

山下浩 著『家族が語る山下清―夢見る清の独り言―』  出版社:並木書房

山下清[画]、山下清展企画室編 『みんなの心に生きた 山下清』 出版社:山下清展企画室

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

見るラジオ

今回は、打上げ花火を見ながらラジオを聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、「penguin8622さん」の下記のものを使用させていただいています。

動画について

■2021#花火駅伝in佐久【長野・ウスザワ】/Hanabi Ekiden in Saku(Usuzawa)
https://www.youtube.com/watch?v=IN9bDIuYvCk

■[4K60p]2018ツインリンクもてぎ花火・夏【フィナーレ】/Twinring Motegi Fireworks Display “Finale”
https://www.youtube.com/watch?v=0nTIqYmtGtQ

■2021高碕HANABIコンクール【競技18社】/Takasaki Fireworks “Competition”
https://www.youtube.com/watch?v=UzPjIP-cJeQ

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

Beyond the Stars by Katrina Stone
https://artlist.io/song/69374/beyond-the-stars

Colour Me by Fiona Harte
https://artlist.io/artist/1321/fiona-harte

She Is All I Need by Cayson Renshaw
https://artlist.io/artist/1447/cayson-renshaw

How We Wanted by Logan Prescott
https://artlist.io/artist/1540/logan-prescott

Super Music Wide