Blooming Days,Aug’02 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Aug’02

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2021年8月2日(月)

私が働くオフィスのある最寄り駅近隣には、この時期、夕方になるとたくさんのムクドリが集まってきます。
市の担当者によると、その数は5000羽以上、街路樹には止まり切れず、電線にもたくさんのムクドリの姿を見ることが出来ます。

ムクドリは、大きさ20cm程度。茶色い翼・茶褐色の頭にオレンジ色のくちばしと脚をもつ一見可愛らしい姿をしていますが、集団となると話は別です。
鳴き声や糞など、通行人や周辺住民にとっては、困った存在となっています。

かつては、山林に生息し、田畑の害虫を食べてくれることから、益鳥として人々と共生していましたが、昨今の都市開発の影響からか、ねぐらを失ったムクドリが都市部に住み着くようになり、たくさんの木が生い茂る静かな公園ではなく、わざわざ賑やかな駅前や繁華街に集まってきます。

どうやら、賑やかなところなら天敵である鷹やフクロウが近寄らないので安全だと考えているようです。

ムクドリの被害を受けている全国の自治体では、フクロウの模型を街路樹につり下げたり、体内時計を乱すと言われている磁石を設置してみたり、鳥が嫌うと言われているイオンを発生する特殊なテープを設置したりと色々と、策を講じたそうですが、いずれも一時的に効果があったものの、すぐに慣れてしまう結果となったそうです。

そんななか、この界隈では、数年前から、鷹を使ったムクドリの駆除が行われていることを知りました。
これは、鷹の飼育や狩りの訓練を行う専門家「鷹匠(たかじょう)」が、ムクドリのねぐら付近に鷹を飛び回らせてムクドリを威嚇し、追い払うという方法で、その効果は覿面(てきめん)にあらわれ、現在ではムクドリたちはどこか別の場所に行ってしまったようです。

仁徳天皇の時代にはすでに行われていたという「鷹狩」ですが、日本の伝統文化が思わぬところで役に立っているのだなぁと感心した次第です。

今日のテーマは、「高貴な人の『究極の遊び』鷹狩の魅力」をテーマにお送りいたします。

それでは、本日の放送内容です。

「Interest」in bloom-その1-

「鷹狩」とは、飼いならした鷹や隼、鷲を山野に放って行う狩猟のこと。
古墳時代の埴輪には、手に鷹を乗せたものも存在するなど、日本では古くから行われていた狩猟方法です。
『日本書紀』には、仁徳天皇の頃、百済から伝えられたと書かれており、タカを調教する「鷹甘部(たかかいべ)」が置かれたという記録が残っています。


「鷹狩」にまつわるお話

仏教思想の影響もあって、禁止令も多く出ましたが、奈良・平安時代に、たいへん盛んになり、天皇・貴族の間で野外娯楽として定着しました。
鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードも残っています。

戦国時代以降は武士の間で人気を博し、戦国大名は領内の地理的把握や民情視察、軍事訓練などの手段としても行っていました。
江戸幕府を開いた徳川家康は、鷹を最高権力者の象徴とし、諸大名や公家に許可なく鷹狩を行うことを禁止しました。
将軍家が鷹狩によって捕えた獲物は、贈答品として諸大名に贈られ、家格(かかく)によって獲物に差をつけることで、鷹狩は将軍家による身分制度の秩序の維持にあったとも言われています。

また、徳川家康は、鷹狩を気分転換の為のお遊びとしてではなく、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られています。
代々の徳川将軍は鷹狩が好きだったようで、特に三代将軍・家光は、将軍在職中に数百回も鷹狩を行ったと記録に残っています。

鷹狩は、五代将軍綱吉の「生類憐みの令」で中断し、飼われていた鷹は、伊豆諸島で放鳥され、鷹匠・鳥見(とりみ)など役職や鷹場も廃止されました。
しかし、享保元年(1716年)、徳川吉宗が八代将軍に就任すると、直ぐに「鷹狩」を復活させました。

吉宗は、江戸 十里四方を鳥や動物の威嚇や殺生を禁じた地域とし、幕府任命の鷹師(鷹匠)を置き、その組織は、鷹師同心、見習いを含め、合計で120名。

飼育する鷹は、およそ100羽だったと言われています。

明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され、1901年の改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至ります。

幕府から宮内省へ引き継がれた鷹匠の技術は、村越仙太郎・花見 薫ら、退職した鷹匠により民間有志に伝えられ、現在活動している鷹狩従事者は、特定流派名を名乗るか否かに関わらず、そのいずれかの技術的系譜を引いています。

一方、明治以降、東北地方において、当初士族層・一定の資力のある農民・マタギの間でクマタカによる雪山の鷹狩が広がりを見せました。

クマタカを使った東北地方の「鷹使い(たかつかい)」の起源は明らかではなく、幕末以前に遡る見方もありますが、用具とその名称に共通・類似するものがあることから、武士の鷹狩が土着化したものと見られています。

東北地方には、鉄砲を使う狩人もいましたが、鉄砲の許可証は非常に高額で、一冬で野ウサギ100羽程度が限界だったのに対し、鷹は米一俵ほどで手に入り、調子が良ければ一冬に300羽も獲れるということで人気が出ました。
東北地方の「鷹使い」は、生業として発展しましたが、第二次世界大戦後の経済状況の変化で、野うさぎの需要が減ったことから急速に衰亡し、現在では松原英俊(まつばら ひでとし)さん ただ一人となりました。

「Interest」in bloom-その2-

江戸時代、徳川将軍家以外に鷹狩を許されたのは、将軍にその実施を許可された諸大名だけでした。
尾張・水戸・紀州の御三家は将軍に鷹場を与えられて、はじめて鷹狩が可能となりました。

尾張藩が将軍家から与えられた鷹場は、武蔵国入間、新座、多摩の三郡でした。
三鷹や東久留米市のお隣、小平市にある西武鉄道国分寺線の「鷹の台駅」の名は、その名残であると言われています。


「鷹狩」に必要な事柄とは

鷹場に指定された区域は、泊まりながら鷹の調教をする鷹匠へ、宿や諸入用の賄いを始め、人馬の提供や上ヶ鳥(あげどり)と呼ぶ鷹の餌となる鳥を供給する賦役を負っていました。
付近の農民は、鷹狩りの雑役や、野鳥飼育用の大豆畑の仕事までも請け負わされ、鷹狩が度重なるにつれて大きな負担となりました。

寛永21年(1644年)に尾張藩主・徳川義直(とくがわよしなお)が鷹狩をするために、現在の東久留米市である多摩郡前沢村に来た際には、付家老(つけがろう)の成瀬正虎(なるせ まさとら)ら家臣95人と中間(ちゅうげん)、足軽など1000人以上が供に加わっており、このため、前沢村では80軒の農家が宿に指定され、この鷹狩りに使用される荷物を運搬するため、多摩・入間郡53ヶ村は1166人の人足を出すように命じられました。

また鷹匠の中には、百姓相手に威張り散らすものも多かったらしく、金品をねだったり、鷹の調教時に田畑を荒らすこともあり、鷹匠の身勝手な行動は続き、村々から忌み嫌われたようです。

さらに、鷹場となった村には様々な規則や禁止事項があり、そこに住む農民の生活も規制され不便を強いられました。

例えば、多摩川で漁をしてはならない、鷹狩の時に通る道や橋を入念に手入れをする、田畑では案山子を立てない、家の新築をしない、うずら、ひばり、キジを獲ってはいけない、大声で人を呼ばない、手を叩かないなど。
時代の移り変わりで内容は異なり、中には事前に届けを出せば許可をされることもあったようですが、制約の内容から察すると、鷹場とされた 村に暮らす人々への負担は、かなり大きかったことがうかがえます。

幕末期の慶応三年(1867年)、幕府が将軍家鷹場を無用のこととする「鷹場廃止令」を出すまでの245年間、鷹場となった村の人々の苦労は続いたようです

「Interest」in bloom-その3-

鶴御成(つるおなり)とは、江戸時代、将軍によっておこなわれた、ツルをとらえる鷹狩のこと。
将軍による鷹狩の中で最もおごそかなものとされました。


江戸幕府の年中行事「鶴御成(つるおなり)」のお話

江戸時代初期にも鶴は捕られていましたが、九代将軍徳川家重が行い、その獲ったツルを朝廷に献じることが将軍家の年中行事、慣わしとなっていました。
鶴と言っても、丹頂鶴ではなく、鍋鶴(なべづる)。
当時「黒鶴(くろづる)」「玄鶴(げんかく)」といわれていた鶴のことで、もっぱらこれを捕っていました。

使われた鷹は、オオタカで毎年11月下旬から12月にかけ、多くは寒の入りののち、飼付場(かいつけば)である千住 三河島筋、小松川筋、品川目黒筋の3方面で行われました。

警戒心が強く、オオタカよりも大きい鶴を捕るのは至難の業で、これを容易にするために、「綱差(つなさし)」と呼ばれる鶴を餌付けする専門の職業があったほどです。

「綱差」は、農夫の格好をして、田に溝を掘り、水はけをよくし、籾や玄米をまいてツルが来るのを待ち、何日もかけて鶴を餌付けします。

十分に警戒心が解け、人を恐れなくなるのを見て、日時を定めます。
当日、将軍は藤色の陣羽織、従者はばんどり羽織、股引、草鞋という出で立ちで、大きな日の丸の扇を高くあげてツルに近づき、ツルが驚いて飛び立とうとするのを見て、将軍がタカを放ちます。

タカ1羽でツルをとらえることはまれで、鷹匠がさらに第2、第3のタカを放ち、ようやく捉えることが出来たと言います。

とらえられたツルは、鷹匠が将軍の前で左腹の脇をひらいて臓腑をだしてタカに与え、あとに塩をつめて縫い、昼夜兼行(ちゅうやけんこう:昼夜通して急いで)で京都へ送りました。
街道筋ではこれを「御鶴様のお通り」と呼び、朝廷に届けられたこのツルの肉は新年三ヶ日の朝供御(あさくご)の吸物になりました。

当日、ツルをとらえた鷹匠には金五両、タカをおさえたものには三両の褒美をたまわり、ツルをとらえたタカはその功を賞して紫の総(ふさ:飾り房)をつけて隠居を命じられるならいであったといいます。

ツルを餌付けする「綱差」は、情が移り、わが子のようにかわいがってきたツルが鷹に捕えられるのを見て、涙を流したといいます。
ツルは一冬に4羽までとされ、捕れない年があったり、一日で4羽捕れてしまった年もあり、その年の吉凶を占うこともされましたが、幕府の威信がかかった鶴御成は、鷹匠にとっては、生きた心地のしない大変な年中行事だったようです。

「Interest」in bloom-その4-

鷹狩は、ヤブや林などに潜む獲物を犬が追い出し、鳥が飛び立ったと同時に鷹匠がすばやく鷹を放し、捕えて降下した鷹の元に鷹匠が行き、餌を与えて獲物から引き離すという流れで行われます。


伝統文化としての「鷹狩」のこれから

かつて、放鷹術(ほうようじゅつ)は武道の一つとされていたことから、鷹匠にも武道や茶道、華道と同じように流派があり、日本には諏訪流と吉田流の2つの流派が現存しています。

諏訪流はいくつかの家元に分かれ、幕末までは徳川将軍家、明治維新後は宮内省・宮内庁に仕えて連綿と受け継がれ、現在、諏訪流放鷹術保存会となっています。
吉田流もまた徳川将軍家に仕えていましたが、吉田の家系は途絶え、現在は吉田門流と呼ばれる派生の家元を経由して、現在まで受け継がれています。

鷹匠になること、それ自体に関していえば、特別な資格、免許、国家資格等は必要ありません。
しかし、実際に鷹匠としての活動を行うためには、所定の放鷹術を今に受け継ぐ流派に弟子入りし、技術を磨くなどして、鷹匠として世間から認められなければなりません。
鷹匠として認められるためには、いくつかの民間団体が主催している講座や認定試験を受け、合格することが必要です。
ただ、鷹匠として働くだけであれば、その必要はなく、独学で鷹匠としての技能を身につける人もいるようです。

マンガ家であり、鷹匠でもあるという職歴をもつ女性、ごまきちさんによると、「技術はもちろん、歴史や伝統、礼節、道具作りのほか、今となっては使いどころのないお殿様に鷹を渡す作法なども学び、「鷹を主人だと思って仕えなさい」といった、神の化身である鷹を尊ぶ心も学ぶ」そうです。

鷹匠の技術は、本来は狩りをするために必要とされるものでしたが、狩りの必要のなくなった現代では、サーカスや動物園で行われるショーのひとつと誤解されることも多いようです。
かつては武道の一つだったということからもわかるとおり、鷹匠は、ただ単に狩りの道具として鷹を扱うのではなく、私達が想像するより遥かに鷹を敬い、鷹と接しています。

日本では鷹狩に対する社会的な認知度が低く、時代の移り変わりによって、消滅の危機にあるようです。
独特の文化儀礼として「技」と「心」によって伝承されてきた日本の鷹狩は、世界各国から高く評価されています。
千五百年余の歴史を持ち、日本文化史に少なからぬ影響を与えてきた日本古来の伝統文化として、鷹狩が今後も伝承されることを願ってやみません。

参考資料

鷹狩 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/s34k

尾張藩鷹場 目次 – 古文書ネット
https://blooming-days.njs.xyz/ut0b

小平市立図書館/こだいらデジタルアーカイブ
https://blooming-days.njs.xyz/sx6b

鷹場は大変なンです! – 幕末多摩・ひがしやまと
https://blooming-days.njs.xyz/3mpx

鶴御成 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/q779

マーリン通信(タカ類・ハヤブサ類情報)
https://blooming-days.njs.xyz/6xf1

NPO法人日本鷹匠協会 | NPO法人「日本鷹匠協会」は、「世界鷹匠協会(IAF)」の加盟団体です。
http://www.jfa.gr.jp/global/

「タカを飼いたいと思わせたくない」女性鷹匠マンガ家が伝えたい、命との距離感 – イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
https://blooming-days.njs.xyz/rowt

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。8/2分については、放送終了後に更新いたします。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

見るラジオ

今回は、ブルガリア第2の都市ブロヴディフをお散歩しながらラジオを聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、下記のものを使用させていただいています。

動画について

Walking in PLOVDIV / Bulgaria 🇧🇬- 4K 60fps (UHD)
POPtravel

https://www.youtube.com/watch?v=VQ8O4pkRiCE

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

Are You Ready for Me Baby by Funky Giraffe
https://artlist.io/song/63852/are-you-ready-for-me-baby

Time Traveling by Sarah Kang
https://artlist.io/song/65025/time-traveling

Joy Ride by Aves
https://artlist.io/song/60885/joy-ride

When It Hurts – Acoustic Version by Lightmuzik
https://artlist.io/song/68612/when-it-hurts

Be Alright by Lightmuzik
https://artlist.io/song/70095/be-alright

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