Blooming Days,Jul’12 | 倉嶋桃子|TOKYO854

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Jul’12

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2021年7月12日(月)

6月の下旬から、全国各地で「蓮」が開花を迎えています。
スタジオのある東久留米からほど近い調布市の西光寺(さいこうじ)でも境内の池の古代ハスがまもなく開花を迎えるようです。

古代ハスは、遺跡で発見された推定2000年以上前の実から発芽に成功したハスのことで、その子孫が全国に広がり、今では全国各地で大輪の花を咲かせています。
ハスの花は短命で、早朝に開き、午後になると閉じ、3、4日で散ってしまいます。
調布市の西光寺では、約45年前、檀家から分けられたものを境内の庭の池で
栽培を始めたことがきっかけで、現在、つぼみが6個ほどあり、順に咲くため2週間ほど見頃は続くそうです。

京都の長岡天満宮や千葉県鴨川市の古代蓮の里、長崎県諫早市の「唐比ハス園(からこはすえん)」や茨城県古河総合公園など、全国には蓮の名所がいくつもあります。
満開の蓮は、まるで極楽浄土を思わせる幻想的な世界とのことですので、お近くの方は是非ご覧になってみてください。

さて、今日7/12は、「江戸幕府8代将軍徳川吉宗公」の命日です。
幕府の財政がほとんど破綻していた最中、期せずして将軍の座に就き、質素倹約などの幕政改革、新田開発、目安箱の設置などの享保の改革を実施し、様々な改革をおこなった事から「徳川幕府中興の祖(ちゅうこうのそ)」とたたえられる吉宗公ですが、歴史の教科書には出てこない色々なお話があるようです。

今日は、そんなあまり知られていない徳川吉宗にまつわるお話をお送りいたします。

参考資料

ハスの名所・見頃情報 – ロコナビ花の名所【2021年】
https://blooming-days.njs.xyz/5dgs

調布・西光寺で2000年の時を超え咲く古代ハス 間もなく開花 – 調布経済新聞
https://chofu.keizai.biz/headline/3521/

それでは、本日の放送内容です。

「Interest」in bloom-その1-

徳川吉宗は、江戸幕府第8代の征夷大将軍。
紀伊藩主の子として生まれ、藩主となると領地の行政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図るなどの様々な改革を実施しました。
これらの改革により当主就任後およそ10年で、幕府からの借金も、家臣の差し上げ金も完済し、紀伊徳川家の金庫には、14万両もたくわえができたと言われています。


江戸幕府8代将軍徳川吉宗公 -その1-

第7代将軍家継の後、第8代将軍となった吉宗は、徳川家康のころの政治を理想とし、質素・倹約をすすめ、増える裁判に対して「公事方御定書」を定め、人々の意見を広く聞くために「目安箱」を設置しました。

目安箱への投書から、小石川に養生所ができ、財政の立て直しのため、大名が参勤交代で江戸にいる期間を半年に減らし、そのかわりに、1万石につき、100石の米を幕府におさめさせました。
また、それまで、作物のでき具合によって年貢の量をきめる倹見法(けみほう)から、作物のでき具合に関係なく決められた量を取り立てる定免法(じょうめんほう)に変え、さらに、新田開発をすすめました。

改革の結果、享保6年(1721年)から同16年(1731年)まで、年平均にすると米で約3万5,000石、金は12万7,000両という黒字を出し、江戸城の金蔵には、100万両を溜め込んだと言われています。

財政はよくなりましたが、年貢が重くなったため、農民の生活は苦しくなり、各地で百姓一揆もおこりました。

延享2年(1745年)に将軍職を長男・家重に譲り大御所となりますが、翌年、吉宗は脳卒中で倒れ、危険な状態が続きましたが、なんとか持ち直し、4か月後には快気祝いが催されました。
しかし、右半身麻痺と、かなり重い言語障害が残ったため、吉宗は、江戸城西の丸で介護生活を送ることを余儀なくされました。

御側御用取次(おそばごようとりつぎ)であった小笠原政登(おがさわら まさなり)の進言で、江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作り、リハビリにも励んだことから、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復したといいます。

吉宗には、およそ90人もの小姓が入浴など身の回りの介護にあたり、食事からマッサージやリハビリ、気晴らしの娯楽まできめの細かいケアが行われました。

当代一流の医師が交代で吉宗の治療にあたり、「六君子湯(りっくんしとう)」
「補中益気湯(ほちゅうえっきとう)」「香砂六君子(こうしゃりっくんし)」「加味六君子湯(かみりっくんしとう)」「カワウソの黒焼き」などの漢方薬を服用しました。
しかし、決して美味しいとは言えないそれら漢方は吉宗の口にも合わず、たびたび残したため、薬をひたしておいた酒「御薬酒」をのませたといいます。
箸が使えない吉宗には、食事のための専属の小姓がつけられていたそうです。

将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日(旧暦)、脳卒中の再発によりこの世を去りました。享年68歳でした。

「Interest」in bloom-その2-

吉宗は産業開発に役立つ実学を奨励し、科学技術に関する知識の摂取のため、キリスト教文献以外の漢訳の洋書の輸入制限を緩和したり、オランダ人や中国人を通じて海外の動植物や文物を積極的に取り寄せました。


江戸幕府8代将軍徳川吉宗公 -その2-

享保年間、幕府は、将軍吉宗の要請により、長崎で通商をおこなう清国の商人に象を発注し、享保13年(1728年)オス7歳とメス5歳の2頭の象に、象使い・通訳のそれぞれ2名が長崎港に到着しました。
重い巨体の象を船から下ろすため、船と波止場のあいだには突堤が築かれ、長崎じゅうの人夫が集められ、慎重に陸揚げがなされました。

上陸後、象は市中を遠まわりして主だった町内を巡回し、長崎の人びとに見物させたうえで唐人屋敷に入りました。

2頭のうちメスの象は、この年の9月11日に長崎で死亡してしまいますが、オスの方は長崎で越冬し、翌享保14年(1729年)3月、長崎を出発して江戸に向かいました。
当時、輸送手段がなかったため、370里(約1,480キロメートル)の距離を、象は陸路をみずからの脚で移動することとなり、江戸までの移動には計74日間を要し、象の歩行速度は、1日あたり3里(約12キロメートル)から5里(約20キロメートル)ほどであったと言われています。

長崎を出発する前、幕府勘定奉行によって街道沿いの村々に出されたお触書では、象が通行する際、見物人は決して大きな物音を立てないこと、寺院の鐘を鳴らさないこと、牛馬の往来を避けること、飼料や河川を渡るための船を準備すること、道路を普請して小石を除去すること、宿泊所では大きめの厩舎を準備をすることなど、細部まで念の入った指示が記されていました。
厩舎では、大量の飲料水、藁100斤、ササの葉150斤、草100斤、饅頭50個という膨大な量の飼料が用意されたといいます。

江戸への到着は享保14年(1729年)5月25日。
それに先立って江戸でもお触が出され、くれぐれも不作法のないよう、また象に菓子などを投げ与えることは固く禁ずることが申しわたされました。

象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中 往来を練り歩いたのち江戸城外の浜御殿、現在の浜離宮に収容され、翌々日の5月27日、将軍吉宗は象を江戸城に呼び寄せ、大広間の前庭で嫡男 家重らとともに桜田門から入城した象と対面し、こののち、象にイノシシやイヌを立ち向かわせて、どちらが強いか喧嘩させたりしたようです。

象は、藁、ササの葉、イタブカズラ(カシの葉)、ヒメクサ、バショウ、大唐米(だいとうまい・たいとうごめ)、餡なし饅頭、ダイダイ、クネンボ(九年母)などを食べ、幕府は、武蔵野一円の百姓にササの葉や藁の持ち込みを命じました。
特に餡なし饅頭は、象の大好物であり、象が荒れたときの機嫌直しに食べさせることもあったそうです。
象が食べる餡なしのお饅頭。どのくらいの大きさだったのか気になるところです。

「Interest」in bloom-その3-

浜御殿では、午前6時ごろに象は運動場に出され、その間、小屋の掃除や敷いたワラの交換がなされる一方、象はからだが洗われ、朝の給餌、運動がおこなわれ、午前11時には昼の給餌、午後は、象の乗降や扱い方の実習、号令や合図などの習得をおこない、午後4時ごろ夕の給餌をおこなっていました。
象御用掛(ぞうごようがかり)は総勢7名、飼育掛には、馬の扱いの上手なものが選ばれ、泊まり番が2人、象小屋の隅の部屋に寝泊まりしました。
しかし、飼育費が年間200両もかかるなどの経済的な負担もあって、翌年には早くも象払下げのお触が出されました。


江戸幕府8代将軍徳川吉宗公 -その3-

ところが、10年以上も払下げ先が決まらず、寛保元年(1741年)には象が気を荒くして象使いを叩き殺すという深刻な事件も起こり、この事件を機に、象は中野村の百姓 源助と柏木村の弥兵衛に払い下げられました。
結局、浜御殿で飼育されたのは約12年におよんだことになります。

象を引き取ることとなった源助は中野の成願寺(じょうがんじ)のそばに象小屋を建て、幕府は、象小屋建設の費用397両を負担しました。

また、象使い5名を源助・弥兵衛のもとに差し向けて飼育法を学ばせ、さらに、飼育料としてひと月に金125両および部屋代として水油と薪を3年間支給することとしました。

象の払下げは、経費削減という理由はもとより、「火の元の用心」が払下げ理由として掲げられていることから、火事の多かった江戸の災害時を想定しての治安上の理由も考えられています。
実際、中野村では寛保2年(1742年)7月1日に、払下げられた象が繋綱を引きちぎって小屋を押し破る騒動があり、このときには町奉行から与力2名、同心5名が派遣されています。

当初、人びとは象見物に殺到し、象に関する商品をあらそって購入しました。
象にまつわる書籍や瓦版・版画・錦絵・双六などが販売され、象を題材とする置物(土人形)や根付・印籠・刀剣・刀の鍔などの商品がつくられ、象をデザインした羽織や帯も売り出されたといわれています。

風また、麻疹や疱瘡(天然痘)には白牛の糞が効くともいわれていたことから、源助は、白牛の糞に効能があるのであれば、霊獣である象の糞はいっそう効能があるだろうと、象の糞を丸めただけのものに「象洞(ぞうほら)」という名をつけて丸薬として売り出し、この薬は飛ぶように売れ、1年後には駿府、京都、大坂にも「象洞」の店ができたほどであったといわれています。

しかし、江戸っ子たちは新しもの好きではあったものの飽きるのも早く、そのうちに見物人は減っていき、エサも貧弱なものになっていきました。

源助らは見物料を徴収するなどして飼育をつづけましたが、象は突然病気となり、手厚い看護がなされたものの、それもかなわず寛保2年(1742年)12月に病死しました。
およそ21歳であったと考えられています。

象を引き取った源助さん、象に名前など つけていたのでしょうか?
なんと呼んでいたのか気になります。

現在、象小屋の跡は中野区立朝日が丘公園になっており、現地には中野区教育委員会の説明板が設置されています。

「Interest」in bloom-その4-

徳川吉宗は、質素倹約の徹底として、将軍でありながらも食事は1日2食、しかも一汁一菜と言う質素さを徹底し、肌着は木綿と決めて、それ以外のものは着用せず、鷹狩の際の羽織や袴も木綿と定めていました。

将軍自ら質素倹約につとめていたわけですから、当然のことながら、幕臣もまた贅沢を禁じられることになります。


江戸幕府8代将軍徳川吉宗公 -その4-

森銑三(もりせんぞう)氏の著書『史伝閑歩』の「吉宗将軍と鰹節」には、以下のように書かれています。

『史伝閑歩』の「吉宗将軍と鰹節」より

代々、徳川将軍のお食事に使うカツブシは毎日、大節20本以上が必要ということになっていたが、これを知った8代 吉宗公は、或る日、調理係の者を呼び出し、目の前でカツブシをかかせた。
かなりの時間かかってやっと3本しか削り得なかった様子を見て、吉宗公は苦笑しながら
「その余(4本以上)は無駄だろう。きょうのところは1日5本ずつと決めておく。なるべく無駄のないよう注意しなさい」と、係りの者には何のお咎めもなかった。

著者の森氏は「それまで幕府の財政が乱れ『将軍毎日の御用カツブシのごとき』と前代未聞の本数を使うまでになっていた」と解説したあと次のように述べています。

日々に使うカツブシの数を問題にするなどというのは、大局からみる時は、ささいなことかもしれないが、一事が万事。将軍一人の生活について考えても、いかに無駄が多かったことか。
吉宗はその身辺から無駄をはぶいて、役人たちの気持ちを一変せしめ、そうした積弊を一掃した。
それだのに吉宗が亡くなったあとは、すべてが旧に復してしまったのは、余儀ない次第であった。

8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けました。
吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗 亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、政治家たちは享保の改革を手本としました。

実は、この吉宗公の緊縮財政政策に反旗を翻し、「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」と贅沢を禁じる吉宗への挑発を行い、隠居謹慎を申し付けられた人物「尾張 徳川家 第7代当主 徳川宗春(とくがわ むねはる)」がいます。この人のお話は、またいつか別の機会に。

参考資料

徳川吉宗 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/vykt

天気予報 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/6ejb

将軍吉宗の虚と実【2018年11月】 | 泉秀樹の歴史を歩く | J:COMテレビ
https://blooming-days.njs.xyz/piz3

広南従四位白象 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/tykt

日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~
https://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/23.html

雨が降らないところで暮す人の知恵 – 不便を愉しむ、さえらるる暮らし
https://blooming-days.njs.xyz/tomc

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。7/12分については、放送終了後に更新いたします。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

見るラジオ

今回は、伊東から河津までをドライブしながらカーラジオで番組を聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、下記のものを使用させていただいています。

動画について

4K IZU Drive 2: Ito to Shimoda 52km
Dashcam Roadshow
https://www.youtube.com/watch?v=1aZktJF3i_Q

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

Birthday by Mika Sade
https://artlist.io/song/65450/birthday

Anything & Everything by J Lind
https://artlist.io/song/46879/anything–everything

Margaritas at Dawn by Lymez
https://artlist.io/song/65445/margaritas-at-dawn

Brokenhearted by Lightboys
https://artlist.io/song/65305/brokenhearted

Cheesecake by Ofer Koren feat. Noa Lembersky
https://artlist.io/song/64802/cheesecake

Cry No More by Michael Shynes
https://artlist.io/song/65195/cry-no-more

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