Blooming Days,Jun’28 | 倉嶋桃子|85.4MHz FMひがしくるめ

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Jun’28

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2021年6月28日(月)

明日6月29日は、ビートルズ記念日。
今から55年前の1966年、60年代から70年代にかけて活動したイギリス・リヴァプール出身のロックバンド、ビートルズが日本での公演を行うために来日したことから制定されました。

ビートルズは、20世紀を代表する音楽グループで、母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作品が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得。
11作品の週間第1位の合計獲得数は162週。
年間売り上げ最高アルバム4作と、第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続30週第1位は、いずれも60年代の最高数を記録しています。
また、シングル22作品を発売し、その内17作品が第1位を獲得。
アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、全世界での総レコード・カセット・CD・ダウンロード・ストリーミングなどの売上総数は6億枚を超えており、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されています。

1965年に女王エリザベス2世からMBE勲章を授与されており、1988年にロックの殿堂入り。
活動前期においてはアイドルとしての側面が強かったものの、後期には『サージェント・ペパーズ ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や『アビイ・ロード』などの名盤と言われるような作品を発表し、より音楽的な面から評価されており、解散から50年以上が経過した現在でも、映画作品や記念盤が発表されるなど世界中で根強い人気を誇っています。

今日は、明日6/29のビートルズ記念日にちなんで「ビートルズがやってきた ヤァ!ヤァ!ヤァ!」と題して、ビートルズをテーマに、知れば知るほど面白いビートルズにまつわるお話をお送りいたします。

それでは、本日の放送内容です。

「Interest」in bloom-その1-

ビートルズは、前身となる「クオリーメン」をジョン・レノンが1957年に結成以降、ジョニー&ザ・ムーンドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名し、ビートルズと称するまでに複数のメンバーが入れ替わっています。

ビートルズと称してから在籍したメンバーは通算6名。
その内2名は1962年にシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビューする前に脱退しています。
その一人、ピート・ベストは、1960年8月に行った最初のハンブルク巡業の直前にドラムス担当として加入しましたが、1962年8月16日に解雇されました。


ビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!-その1-

ピート・ベストは、ビートルズの無名時代、下積み時代にメンバーと共に切磋琢磨し、地元の人気バンドに押し上げた功労者でしたが、EMIのオーディションの際、プロデューサーのジョージ・マーティンが、ピート・ベストのドラムに難色を示し、バンドを脱退させられたと言われていますが、それは同時にジョン、ポール、ジョージも考えていたことで、ピートひとりだけが最後までマッシュルームカットにはせずリーゼントのままだったことからも推測できるように、3人と溶け込んでいなかったことも重なり、メジャーデビュー直前でグループを解雇されました。

代わりに、ビートルズの下積み時代からの知り合いであったリンゴ・スターが、ドラムスとして新メンバーに加わることとなりますが、リンゴの加入はレコーディング直前であったことと、この加入話がメンバー主導で進められており、ジョージ・マーティンの与り知るところではなかったため、すでにセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトを手配していました。

ビートルズのデビュー曲となった「ラブ・ミー・ドゥ」は、17テイクの録り直しの末、最初に発売されたシングル版では、リンゴが叩いたテイクが使用されているものの、以後の再版シングルや、デビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」や一部のコンピレーション・アルバムには、アンディ・ホワイトが叩いたテイクが使用されています。

両バージョンを聴き比べても両者のドラムにさほど差があるようには思えませんが、実際には、ジョージ・マーティンが、リンゴのドラムにも満足しなかったことから、再度録音する事を決定し、アンディ・ホワイトがドラムを演奏し、リンゴはタンバリンを叩いているだけのバージョンが使われています。

解雇されたピート・ベストは、その後2度とビートルズのメンバーと会うことはありませんでしたが、1995年の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」のアルバム発売時、ポール・マッカートニーはピートに直接電話をして、アルバムに収録されたピート演奏の10曲の印税約800万ポンド(当時約11億円)を支払うことを提示し、ピートはこれを受け取りました。これが、解雇の一件以来ビートルズの元メンバーとピートが交わした初めての会話だったそうです。

「Interest」in bloom-その2-

1stシングル「Love Me Do」はイギリスで最高位17位どまりだったもの、2ndシングル「Please Please Me」ではイギリスで初の1位を獲得。
ファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』も、チャート1位となり、その後、連続30週間、1位が続きました。


ビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!-その2-

1963年11月にセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発売されると、12月に『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて第1位を獲得、1964年5月まで21週間連続1位を獲得。

ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有しており、10月には、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」に出演。

これによってビートルズは、イギリスでの人気を決定的なものとし、この日の放送の翌日から「ビートル・マニア」という言葉も使われ始めました。

さらに11月にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)にも出演し、最後の曲「Twist and Shout」の紹介の際に「安い席の皆さんは拍手をしてください。あとの方々は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と言ったジョンの発言は、翌日の新聞にこぞって取り上げられ、庶民の声を代表したジョークとしてイギリス中で大好評となりました。

デビューからわずか1年で、イギリス全土およびヨーロッパ各国で大成功を収めたビートルズは、その後「ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」がビートルズを記事にし、ラジオのディスク・ジョッキーがビートルズのレコードをかけ始めると、アメリカでも次第に知られる様になり、ビートルズのアメリカでのデビュー・シングル「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」が発売されると、発売後1週間で80万枚、4週間で250万枚を売り、1964年2月1日には『ビルボード』紙のシングル・チャートの1位に昇りつめました。

アメリカに上陸したビートルズは、アメリカで大人気のTVショウ『エド・サリバン・ショー』に出演し、2/9の放送では、視聴率72%という驚異的な記録をはじき出し、ビートルズが演奏していた10分間には、あのニューヨークで青少年の犯罪が一件も発生しなかったというエピソードまでも生まれました。

その後も、ビートルズの勢いは止まらず、4/4付けの『ビルボード』紙のシングル・チャートでは、1位~5位までの上位5曲のすべてがビートルズの曲で埋め尽くされ、当時の異常ともいえるビートルズ旋風を如実に表しています。

「Interest」in bloom-その3-

1966年6月30日から7月2日にかけてビートルズ唯一の日本公演が行われました。

直前の公演地、ハンブルグからロンドン、アンカレッジを経由して羽田空港に着いたビートルズは、関東地方での台風のためアンカレッジで一時降機してウェストウッド・ホテルで休養したため、予定より11時間ほど遅れ、6月29日の午前3時39分に到着しました。


ビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!-その3-

羽田空港到着時には、早朝にもかかわらず大勢の報道陣やファンらが待つ中を日本航空の「JAL」のロゴと鶴丸のついた法被(はっぴ)を着てタラップを降り、キャデラックにパトカー先導でホテルへ向かいました。

公演は6月30日夜および7月1日 昼夜・2日 昼夜の計5回。
会場はすべて東京都千代田区の日本武道館。

今では武道館でのコンサートは一般的ですが、当時はまだ武道館でコンサートを行ったアーティストはおらず、それに反対した右翼団体、大日本愛国党総裁をはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ、さらには実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいました。
このため警視庁は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行いました。

ビートルズの日本公演は、プロモーター永島 達司 氏のもとにマネージャー・ブライアン・エプスタインからの打診があって実現しました。
永島氏は、外国ミュージシャンからの信頼の厚いプロモーターで、そういう話がビートルズ・サイドにも伝わっていたのか、彼のもとへ「ビートルズの日本公演はどうか」の打診がはいったと言われています。

永島氏は、「日本の子どもたちは貧しいので、外国の相場になっているビートルズ公演のチケット代金を払うのはムリ」と断りましたが、アメリカ、イギリスに次いで売り上げをのばしている日本のマーケットを重視しはじめていたブライアン・エプスタインは諦めず、「なら、いくらなら払えるか」という話になり、ほぼLP1枚の金額を提示したそうです。

これなら日本の子どもたちでも払える代金ではないかと承諾し、チケット代はA席:2100円、B席:1800円、C席:1500円と決まりました。

また、ブライアン・エプスタインが出してきた条件は、「1万人を収容できる屋内会場であること」。

当時、日本にはこの条件を満たす会場は、1964年に竣工した、できてまもない日本武道館しかなく、「神聖なる競技場を、ビートルズなどという、わけのわからないものに使わせるわけにはいかん!」というさまざまな声に、話は二転三転するものの、なんとか日本公演が決定しました。

司会を務めたのはE・H・エリック。
「みなさん、たいへん長らくお待たせしました。待望のビートルズ公演です。立ったりせずお席のところでお願いしたいと思います」
という声で始まったコンサートですが、アリーナ席には席を設けず、全て固定席が設置されたスタンド席のみが使用されたこともあってか、ビートルズの公演の中で世界で一番静かなLIVEだったとも言われています。

「Interest」in bloom-その4-

イギリスのみならず日本や世界をも席巻したビートルズですが、世界各国を巡るコンサート活動は、この年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートが最後となりました。

スケジュールの過酷さから、メンバーの体調面や私生活の破綻が懸念されるようになったことに加え、機材面の問題でメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始めるなど、その後の活動は、スタジオでの創作活動がメインとなり、コンサートでは再現困難な作品が作られるようになりました。


ビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!-その4-

1967年6月、「ビートルズが架空のバンドに扮してショーを繰り広げる」というアイデアで作られた初のコンセプトアルバム「サージェント ペパーズ ロンリーハーツ クラブ・バンド」が発売されました。

全編まさに多重録音によるスタジオ・ワークで作られたこのアルバムによって、ビートルズは音楽的にも、当時の若者のカルチャー全般においても一つの頂点を極めたと言えます。

それからわずか2ヶ月後、無名のビートルズを、この世に出し大成功へと導いたマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなりました。

彼の死を知ったメンバーの衝撃は相当なもので、「ブライアンがいなくなった今、僕らは船長をなくして嵐の海を揺れる船みたいなものだ」とジョンは語っています。

メンバーたちは、自分たちのチカラだけですべてを解決していこうと、翌1968年にアップル、正式には『アップル・コープス・リミテッド』の事務所をロンドンに設立し業務を開始します。

第1弾シングルとして発売された「Hey Jude」は、ビートルズ最大のヒット曲となり、第1弾アルバムとなる「THE BEATLES (通称WHITE ALBUM)」も売れに売れ、世界で4番目に売れたアルバム、そして2枚組の作品では世界で1番売れているアルバムと言われています。

しかし、この頃から、4人はバラバラとなりそれぞれ別の活動に傾倒していきます。
メンバー間の亀裂は、この時期最悪で、翌1969年「昔のように戻ろう」というポールの提案でゲット・バック・セッションが開始されますが、メンバー間の不和が解消されることはなく、ついには1970年4月、ポールがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となりました。

「Interest」in bloom-その5-

ポールは、ビートルズ解散後、妻 リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レインの3人を中心に構成されたロックバンド、「ウィングス」を結成し、1981年の解散までに7枚のオリジナル・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表し、多くのヒット曲を輩出しました。


ビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!-その5-

1980年、ウイングスは初の来日ツアーを日本武道館、愛知県体育館、フェスティバルホール、大阪府立体育館で行う予定となっていましたが、ポールが成田空港の税関で大麻取締法違反で現行犯逮捕されるという事件が起こり、ポールは数日間の勾留のあと日本からの国外退去処分を受けて本国に帰国、急遽日本でのツアーは全公演中止となりました。

当時を知るウドー音楽事務所代表取締役 高橋辰雄氏によると、「実は大麻は同行していたポールの当時の妻、リンダの鞄から出てきました。ポールは妻を庇い『私のものです』と答え、逮捕され、リンダはホテルで『私のせいでこんなことになった』と号泣していました」と話しています。

同じ頃、フィリピン・マニラの拳銃密輸事件にからんで仲間一人を射殺し留置場にいた瀧島祐介氏は、翌日の朝、二階の一角にある名前ばかりの運動場でポールと出会ったと言います。

刑務所の受刑者とは違って留置場内の被疑者は基本的に私服であり、ポールはカジュアルなジーンズ姿だったそうです。

思い切って「ポール!ハロー!」と話しかけてみると、一瞬の間があって「ハロー!」と返事があり、ポールは歩み寄ってくると、笑みを浮かべて手を握ったといいます。

ポールが出所する前日の1月24日の夜7時ごろのこと、瀧島氏は数メートル離れた房にいるポールに聞こえるように「ポール!イエスタデイ、プリーズ!」と叫ぶと、「OK!」と叫んだ直後、冷たい床の板を手と足で叩き、リズムをとり始め、ポールはアカペラで「イエスタデイ」を歌い始めたそうです。
歌が終わると留置所内は拍手喝采となり、「アンコール!」の合唱も巻き起こったといいます。

ポールによると、留置場では看守誰もがサインを欲しがり、「ちょっと待ってよ。サインするから、僕を出してよ!」と思いながら日本独特のサイン色紙を不思議に思いながら何枚もサインしたそうです。

参考資料

ビートルズ – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/rjrv

ビートルズ・ヒストリー
https://blooming-days.njs.xyz/pdjq

ピート・ベスト – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/vpo1

ラヴ・ミー・ドゥ – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/wr44

【一聞百見】伝説のツアマネが語る/ロックスターと駆けた半世紀/ウドー音楽事務所代表取締役 高橋辰雄さん(66) – 産経ニュース
https://blooming-days.njs.xyz/o53x

留置番号22番、ポール・マッカートニーが警視庁の雑居房で歌った「イエスタデイ」|TAP the LIVE|TAP the POP
http://www.tapthepop.net/live/35395

ウイングス – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/09c3

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。6/28分については、放送終了後に更新いたします。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

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