Blooming Days,Jun’21 | 倉嶋桃子|85.4MHz FMひがしくるめ

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,Jun’21

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2021年6月21日(月)

先週の月曜日、関東地方もやっと梅雨入りしました。
平年より1週間遅く、ここ10年で一番遅い梅雨入りとなりました。
1951年の統計開始以来、10番目に遅い梅雨入りです。

長雨の続く梅雨のこれからの時期、傘に雨合羽に長靴と、雨具が手放せない季節となります。
日本に傘が入ってきたのは、今から1400年以上前の欽明天皇の時代。
天蓋のようなもので、当初は主に日除け用の「日傘」として使われており、実用的な目的というよりも権威の象徴として使われていました。

元となったのはインドの日傘。
仏教発祥の地であるインドは日差しが大変強かった為、多くの貴人が従者に日傘を差しかけられていたそうで、高貴な人物ほど豪華なつくりの日傘を使用していたと言われています。
また、この時代の傘は開いたままで閉じることが出来ませんでした。

現在私達が目にするような畳むことができる傘となるのは、安土桃山時代にはいってから。
広く一般に使われだしたのは江戸時代中期以降のことで、その姿は浮世絵に描かれる町人にも多く見られ、生活必需品として広く普及していたことがうかがえます。

この和傘、長屋住まいの浪人が内職として傘張りをする姿を時代劇でよく見かけますが、果たして本当だったのでしょうか?
梅雨に入り傘を持ち歩く日が増えますが、今日は雨にちなんで「和傘と浪人の生活」についてお送りしたいと思います。

それでは、本日の放送内容です。

「Interest」in bloom-その1-

和傘はおもに竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油(きりあぶら)等を塗って防水加工した油紙を使いました。

洋傘の骨が数本程度であるのに対して、和傘の場合、数十本の骨が用いられます。
これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで、余った被膜を張力で張るのではなく、竹の力により、骨と張られた和紙を支える仕組みとなっているのがその理由です。


和傘と浪人の生活-その1-

和傘は防水性には大変優れていますが、耐久性に優れているとは言えず、また自然素材を多用した結果、洋傘に比べて重いという欠点があります。

そのため、上向きに開くには重すぎるので、過度な力が ろくろや骨にかかることを避けるよう、下向きに開き、その後、上に向けるのが一般的です。

また、傘の保管方法も洋傘とは異なり、雨水が頭頂部にたまり、浸水により破損するのを防ぐため、天井や軒先からつるすように保管していました。

和傘には番傘(ばんがさ)や蛇の目傘(じゃのめがさ)、端折傘(つまおれがさ)などの種類があり、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗ったりするなどの変種も見られます。

平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、安土桃山時代には和紙に油を塗ることで防水性を持たせ、進化してきた和傘ですが、江戸時代に入り、元禄年間からは僧侶や医者達に使われるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸し出して、店の名前を宣伝してもらうといったことも行われたほか、歌舞伎の小道具としても使われるようにもなりました。

庶民の間に傘が広まってくると、傘の製作過程は分業化され、失業した武士が副職として傘を製作することもありました。

この当時の傘の値段は、今の貨幣価値に直すと1万円を超え、まだまだ江戸の庶民には高値の花。
そこで、古くなって紙が破けた傘を買い歩く「古骨買い(ふるぼねがい)」が、傘の傷み具合によって1本100〜300円で壊れた傘を買い上げ、それに新しい油紙を張ったリサイクル品を新品の半値から7割り程度の値段で売っていたようです。

この油紙を張り替える仕事こそが、時代劇でたびたび登場する傘張りの内職。
実際、多くの浪人(仕事を失った武士)が、せっせと張り仕事に精を出していたようで、特に青山百人町(今の港区の青山)に屋敷があった甲賀組には熟練者が多かったといいます。

明治時代以後、洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていきました。
現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点(のだて)用などに、持ち歩くのではなく固定して利用される程度のようです。

現在、和傘をさしているのを見かけるのは大相撲の力士。
ただし、幕下以上に上がらなければ和傘を差すことを許されず、三段目以下は洋傘しか許されないそうです。

「Interest」in bloom-その2-

江戸時代の浪人とは、主君を持たない武士のこと。
各藩では武士の地位が禄高(ろくだか)によって決まっており、特定の役職は特定の家系の武士しか就くことができませんでした。

江戸幕府は武断政治により、各藩に目を光らせており、1650年、三代将軍家光のころまでは、些細な事で藩を減封、改易していたので、主君を持たない浪人が世に溢れました。


和傘と浪人の生活-その2-

主君を離れて禄(ろく)を失った浪人は,戦乱期には軍功による再仕官もできましたが、江戸時代、幕藩体制の確立以後はそれは非常に難しいものになりました。

とくに家康・秀忠・家光の3代の時代には大名改易などで浪人の数は多く、家光晩年の1650年ごろには40万〜50万人にものぼったといわれています。

浪人は士籍を失ったのちも、苗字帯刀を許されて武士の体裁を保っていましたが、裏店(うらだな)の借家に住まい、身柄は町奉行の配下で、法的身分は百姓・町人と変わらなかったといいます。

他の藩に士官するものや、道場などを開き、武芸で身を立てるもの、用心棒として雇われたり、学術や芸術で活躍したりする者もいました。

浪人というと、無頼者、乱暴狼藉を働く者といったマイナスイメージがあるかもしれませんが、実際にはそのような者たちはごく一部で、ほとんどの浪人は善良であったと伝わります。

戦争のない太平の時代だったので、武芸に優れた者よりも、例えば、算術に優れた者、治水や土木に詳しい者、焼き物の目利きができる者など、スキルのある者がどこでも優遇されたようです。

物価が高騰しだした江戸時代中期以降、仕官していたものの、生活苦に喘いだ武士たちは内職を始めます。

基本的に武士の内職は禁じられていたそうですが、下級武士の内職に限っては許されていたそうです。
また、藩によっては黙認どころか内職を奨励していたところもありました。

特に、現在の東京都港区青山にあった鉄砲百人組の組屋敷では、組織的な傘張りの内職が行われていました。彼らの作る傘はとても評判がよく「青山傘」というブランドにまでなったとか。
そんなブランド傘を手がけていた青山の鉄砲百人組たち。

「百人組」とは、与力20名、その手下の同心が100名で構成される組織のことで、根来組(ねごろぐみ)、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)という4つの組織が交代交代で100人ずつ、江戸城の警備にあたっていました。

伊賀、甲賀と聞いてピンとくる方もいるかと思いますが、彼らの正体は忍者だったとも言われています。

忍者というと諜報活動や敵のかく乱などがイメージされますが、家族総出で内職に励む姿を想像すると、宮仕えも大変なんだなと思います。
百人組は徳川幕府の正式な御家人ですが、平時には活躍の場が乏しく、その暮らし向きは決して裕福であったとはいえないようです。

「Interest」in bloom-その3-

幕府成立当初は、大阪の豊臣家は健在、幕府の基盤も磐石なものではない不安定な状態だった為、豊臣秀頼を始めとする反徳川勢力が挙兵する際に、呼応する可能性があったため、牢人は市中に住むことすら許されていませんでした。

牢人は、公儀から不穏分子として監視対象にされ、「二度と仕官しない」と、意思表明の上、旧主と親類や知人などに身元保証をしてもらい、町の顔役である町年寄の証明を受け、都市を管轄する役所から手形をもらい「公儀ご存知の牢人」という証明書を得て、ようやく市中に住めるような状態でした。

※この時代までは「牢人」の漢字が使われていました。


和傘と浪人の生活-その3-

しかし、時代は下り、家光の晩年の頃には幕府の体制が安定し、牢人を不穏分子として監視をする制度はなくなり、仕官希望の有無に関係なく市中に住めるようになりました。

浪人は、本人が罪を犯すか、役目で落度があり責任を取る形で仕官先を辞めるという、本人の落度で浪人になるケース、主家(しゅか)が取り潰されるという、本人にはどうしようもない理由で浪人になるケースや、財政難の藩がおこなう人員削減、俸禄の八割減など俸禄の大幅な削減、俸禄の遅配などが行われ、生活苦から浪人になるケースなど、理由は様々でした。

武家は格式を保つために多額の出費が必要で、借金に苦しむことが多く、経費が収入より多い役職もあり、仕官すれば収入が増えるとは限らず、一芸に秀でている者は仕官するよりも在野(ざいや)で活躍する方が高い収入を得ることが可能でした。

浪人の生活というのは余り知られていませんが、様々な方法で生計を立て暮らしており、時代劇で描かれるような無頼の浪人は実際は少なく、善良に暮らしている浪人が多かったようです。

剣術、槍術(そうじゅつ)、弓術など、優れた技量をもつ浪人は、武芸で身を立て、大道場の主になれば、並みの武家より、豊かな暮らしができました。

剣豪と言われる宮本武蔵もまた浪人でしたが、仕官の道が叶わなかった不遇の武芸者のように語られているものの、実態としては多数の弟子を抱えた道場主であり、後世に書画を遺すほどの生活の余裕がありました。

また、大店(おおだな)や農村などに用心棒として雇われるケースも多く、これは、連絡手段と移動手段が発達していなかった当時、非常時に役人を呼びに行き、連れてくるまでかなりの時間を要していたことが理由のようです。

一方、武芸者だけでなく文芸・学術・芸術で活躍した人も多く、俳人の松尾芭蕉や浄瑠璃や歌舞伎・狂言の作者として有名な近松門左衛門も浪人でした。

また、幕府、藩、旗本や商家の財政指南をし、経営改善を行なう経営コンサルタントのような職業もあり、能力に秀でた人にとっては、浪人というのは居心地のいい身分だったのかもしれません。

特に、なにも得意なものがない浪人の場合、読み書きさえできればよかった寺子屋の師匠や時代劇に
よく出てくる傘張りの内職、自暴自棄になって強盗などの犯罪に走った者もいたようです。

幕末になると、土佐藩の坂本龍馬など制約の多い藩から、自ら脱藩して浪人になり、自由な立場で活躍する者たちも多く出た一方、町人や百姓など非武士身分の出身でありながら、勝手に苗字帯刀をして浪人を名乗る者も現れました。

江戸時代、武士・平人・賤民の三つの身分層で成り立っていた身分制度も、明治維新後、四民平等の政策が採られ、浪人という身分も消滅しました。

「Interest」in bloom-その4-

青山の鉄砲百人組の組屋敷で、組織的な傘張りの内職が行われていたのと同様、牛込弁天町(うしごめべんてんちょう)の鉄砲百人組は、提灯張りの職人集団として有名でした。
また、大久保に組屋敷があった伊賀の鉄砲百人組は、この地に自生していた「つつじ」の栽培を内職としていました。

いくら平和な時代でやることがなかったからとはいえ、お侍さんといえば身分が高く、それなりの優雅な生活をしていたと思われますが、下級武士たちになるとそうでもなく、その生活はかなり質素なものでした。


和傘と浪人の生活-その4-

当時の最下級武士の給料は、三両一人扶持(さんりょうひとりぶち)。
「一人扶持」というのは、米五俵のことを言いますので、 現金三両とお米300kgが年収だったことになります。

現在の貨幣価値に直すと40万円に満たない金額ですから、組屋敷住まいで家賃がかからなかったとはいえ、当然これだけで食べていくことは出来ず、多くの下級武士たちにとって内職をするのは当然のことで、幕府も百石以下の下級武士たちには内職することを許していました。

しかし、武士としてのプライドがあるために、内職で作ったものを直接商人の屋敷まで売りに行くことはせず、それらを卸問屋まで持って行って換金するのは、武家地の辻番(つじばん)の番人が副業として行っていました。

傘張りを組織的に行っていた青山の鉄砲百人組の組屋敷界隈には、傘の仲買商が20軒以上もあったそうです。
奴傘(やっこがさ)1把12本で張り賃が2貫文ぐらい、現在の貨幣価値に直すと23,000円程度だったといいますので、それなりの副収入だったと推定されます。

下級武士たちの内職は、傘張りや提灯、凧などを作る仕事や、金魚や鈴虫、コオロギなどのブリーダー、朝顔やツツジの栽培などが有名ですが、文化・文政の頃になると、メリヤス(現在で言うニット)の普及に伴い、江戸の浪人や小禄(しょうろく)の武士の間では、編み物の内職が広くおこなわれるようになりました。

編み棒には細い鉄の棒を用い、靴下の他、刀のつか袋やつば袋、印籠下げなどを編んでいました。

その後、鉄砲を使った近代武装の時代に入ると、鉄砲を素手で触ると錆びやすいため、扱う時の手袋などへと応用範囲が広がっていきました。
この時作られた手袋が、今私達がよく知る「軍手」の起源と言われています。

お侍さんが編み棒を持ち、せっせと靴下や手袋を編んでいた姿を想像すると、なんだか微笑ましい気持ちになります。

参考資料

傘 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%98

日本の傘にまつわる略年表&傘の構造と和傘の工程│50号 雨に寄り添う傘:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/03.html

浪人 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/qtj0

転職業界の歴史1(江戸時代)
http://tenshokumethod.com/history1.html

本当に江戸の浪人は傘張りの内職をしていたのか? —時代考証でみる江戸の仕事事情 傘のブックプレビュー | 日本洋傘振興協議会
https://edo-g.com/blog/2016/12/side_job.html

忍者が鈴虫の養殖!? 意外に貧乏だった武士たちの驚きの内職とは?(2) | 江戸ガイド
https://www.jupa.gr.jp/posts/view/151

江戸時代の浪人
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/ronin.htm

百人組 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/slsp

メリヤスの起源・歴史について
https://slouch.jp/topics/column/7025/

日本の武士が起源⁉︎ 軍手の歴史から知る! 日本のものづくり | はたらく服と道具とクロスする。
https://blooming-days.njs.xyz/q85b

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。6/21分については、放送終了後に更新いたします。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

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