Blooming Days,May’17 | 倉嶋桃子|85.4MHz FMひがしくるめ

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,May’17

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2021年5月17日(月)

みなさん、こんにちは。倉嶋桃子です。

先日大学時代の友人で、看護師をしている友人から久しぶりに連絡がありました。
内容は、地元のコミュニティFMに電話出演することになったということから、現在の仕事の内容についてや自分や家族の体調管理など、気になることを多く抱えながら日々生活しているということでした。

連絡があったのが、奇遇にも5月12日で、近代看護を築いたフローレンス・ナイチンゲールの誕生日にちなみ制定された「看護の日」でした。

イギリスにおいてナイチンゲールが出現するまでは、看護という仕事は社会的に確立しておらず、病人や負傷者の看護は、主に身内の者が行い、病院という施設はあったものの、そこで働いている看護師は、専門知識もなく、教育も受けていないような最下層の女性たちが単なる召使いのように扱われていたようです。

その後、1854年クリミア戦争に従軍したナイチンゲールの活躍により、公衆衛生の概念が確立されたり、死亡原因ごとに死者の数をひと目でわかるようなグラフをつかった統計資料が作成され、病院の状況分析ができるようになるなど、保健制度全般の改革に大きく貢献したと言われています。

ナイチンゲールは、クリミア戦争から帰還した後、1860年に「看護覚え書」という書物を執筆。
その中では、看護のあり方や考え方を説き、はじめて「看護とは何か」という定義を明らかにしています。
また、同じ年、ロンドンに看護婦養成所を設立させ、本格的な養成教育をスタートさせます。
この教育システムは、ナイチンゲール方式と呼ばれ、日本へも大きな影響を与え、今の日本の看護の礎となったとのことです。

ナイチンゲール自身が看護師として職務についていたのは、クリミア戦争の時期2年間だけと言われており、その後37歳の時に心臓発作で倒れ、さらに慢性疲労症候群からくる虚脱状態に悩まされた彼女は、90歳で亡くなるまでの50年間のほとんどを、本の原稿や手紙を書く活動にあて、ベッドの上で過ごしたそうです。

現在、このような状況もあってか、体調不良があった際に病院へ行くことをためらうばかりに、体調が悪化してから病院へ相談する事例もあると友人も話をしていました。
無理することなく早めに受診することで、大ごとにならずに済むということもありますので、体調管理をしながら、受診するタイミングをしっかり判断できるようにしたいものです。

参考資料

フローレンス・ナイチンゲール(Wikipedia)
https://blooming-days.njs.xyz/1a4m

東京有明医療大学(看護の歴史)
https://www.tau.ac.jp/future/nursing/history.html

没後100年,今ふたたびのナイチンゲール――『看護覚え書』に学ぶ(岩田 誠,川島みどり)
https://blooming-days.njs.xyz/8zcs

それでは、本日の放送内容です。

「Life」in bloom-その1-

5/17は、日本の歴史上初めて科学的な測量を行い、日本全土の地図を作成した人物「伊能忠敬」が、73歳でその生涯を閉じた日です。

伊能忠敬は、49歳で隠居した後、50歳で江戸に出て、55歳から71歳まで10回にわたり測量を行い、完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降、国内の基本図の一翼を担いました。

今回の放送は、隠居後に前人未到の全国測量を成し遂げ、精密な日本地図を作成した伊能忠敬についてお送りいたします。


伊能忠敬について-蝦夷地測量に出発するまで

伊能忠敬は、延享2年(1745年)、現在の千葉県九十九里町である上総国山辺郡(やまべぐん)小関村(こぜきむら)の名主・小関(こせき)五郎左衛門家の当主・小関貞恒(さだつね)の第三子として誕生しました。

忠敬が17歳の時、縁あって、親戚の平山家の養子となり、佐原(さわら)の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚しました。

伊能家は、佐原で一、二を争う商家でしたが、当主不在の時代が長く続いたために財政は逼迫し、事業縮小を余儀なくされていました。

当主となった忠敬は、商才を発揮し、家業の醸造業を多いに盛り立て、薪炭(しんたん)、金融、米穀売買など家業を拡大。
37歳からは佐原村の名主となり、水害・飢饉の際は困窮した村民に身銭を切って米や金銭を分け与えるなどの救済に尽くしたことから、苗字・帯刀を許されました。

49歳で息子に家督を譲り隠居した時には、家産が3万両、現在の価値にして30億円にも達していたと言われています。

その後、江戸に出て深川に隠宅を構え、幼い時から興味のあった天文学を学ぶため、幕府天文方の高橋至時(よしとき)の門弟となりました。

19歳年下の至時は当時日本の天文学の第一人者であり、西洋の天文学にも精通し、改暦を行った人でもありました。
忠敬は隠宅に天文方にも匹敵する規模の観測所を設けて、至時から学ぶとともに、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、推歩(すいほ)という天体運行の計算に熱中しました。

時間をきめて観測するため、外出を好まず、雨でも降らないとゆっくり話すこともできなかったらしく、あまりに熱心なので、師匠の至時は忠敬に推歩先生という「あだな」をつけたそうです。

観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年(1798年)の時点でも、まだ至時からの信頼は得られていませんでしたが、忠敬は毎日観測を続けました。

太陽の南中(なんちゅう)を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行っていました。

至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始め、話の途中で席を立って急いで家に帰り、慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れるなどの話も残っており、相当に熱心だったことが伺えます。

忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食など。
また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っています。

本格的に天文学を学ぶうちに、地球の大きさを知りたいと思うようになった忠敬は、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算し、師の至時に報告しますが、「その値は誤差が大きくて信頼できない。深川―暦局間では近かすぎるが、蝦夷地くらいまで測ったら信頼できる値になるだろう」と言われ、早速、幕府に蝦夷地測量の申請書を提出することになりました。

当時の幕藩体制のもとでは、幕府の許可がないと蝦夷地まで行くことはできませんでしたが、その頃、蝦夷地にはロシアなどの外国船が出没するようになり、幕府が危機感を抱いていたことから、地図を作り蝦夷地の地形を明らかにするという名目で測量が許可されることになりました。
忠敬に、「元百姓・浪人」という身分で、1日銀7匁(もんめ)5分(現在の貨幣価値で1万円程度)が支給され、残りの経費は、忠敬が負担しました。

忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛(えぞち とりしまり ごようがかり)の松平信濃守忠明(まつだいら しなののかみ ただあきら)に出した申請書には、自らの思いが次のように綴られています。

伊能忠敬の申請書の中より

私は若い時から数術が好きで、自然と暦算をも心掛け、ついには天文も心掛けるようになりましたが、自分の村に居たのでは研究も思うようには進まないので、高橋作佐衛門様の御門弟になって六年間昼夜精を出して勉めたおかげで、現在は観測などもまちがいないようになりました。
この観測についてはいろいろな道具をも取りそろえ、身分不相応の金もつかいました。

隠居のなぐさみとはいいながら、私のようなものがこんな勝手なことをするのはまことに相済まないことでございます。

せめては将来の御参考になるような地図でも作りたいと思いましたが、御大名様や御旗本様方の御領内や御知行所などの土地に 間棹(けんざお)や間縄(けんなわ)を入れて距離を測りましたり、大道具を持ち運ぶなど いたしますとき、必ず御役人衆の御咎にもあうことでありましょうし、とても私どもの身分ではできないことでございます。

ありがたいことに このたび公儀の御声掛りで蝦夷地に出発できるようになりました。

ついては、蝦夷地の図と奥州から江戸までの海岸沿いの諸国の地図を作って差し上げたいと存じますので、この地図が万一にも公儀の御参考になれば、かさねがさねありがたいことでございます。
地図はとても今年中に完成できるわけではなく およそ三年ほど手間取ることでございましょう。

ここでは蝦夷地だけでなく、奥州から江戸までの海岸線の地図作成についても述べられていたことから、忠敬は最初から日本全国の測量が念頭にあったのではないかと考えられていますが、その見解に対しては異論もあるようです。

「Life」in bloom-その2-

忠敬一行は寛政12年(1800年)4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発しました。
忠敬は当時55歳で、息子の秀蔵(しゅうぞう)を含む内弟子3人、下男2人を連れての測量となりました。


伊能忠敬について-蝦夷地測量から日本東半部沿海地図完成まで

富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局(れききょく)に立ち寄り、至時宅でお酒をいただいた後、千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めました。

千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わり、距離を歩測で測りながら、1日におよそ40kmを移動しました。
そして、出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩(みんまや)に到達すると、松前半島南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かいました。

5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷地測量が始まりましたが、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤(だいほういばん)は箱館に置いておかざるを得ませんでした。

一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測を行い、海岸沿いを通れないときは山越えをしましたが、蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多かったそうです。

また、本州のような宿がなかったため、宿泊は会所(かいしょ)や役人の仮家(かりいえ)を利用しましたが、難所続きで草鞋もことごとく破れて困っているところに、目に入った会所からの迎え提灯は「地獄に仏」のようだったといいます。

8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路につきました。

9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着しました。

第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷地滞在は117日でした。
なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷地滞在中に間宮林蔵に会って弟子にした旨の記述があり、スケジュールの都合上、蝦夷地内の測量できなかった箇所は、間宮が代わりに測量して測量図を作りました。

その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図は最終的に間宮の測量図になっています。

江戸に戻った忠敬は、測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させました。

測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取りましたが、忠敬は測量に出かけるときに100両を持参しており、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになります。

後世の試算によると、このとき忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度。
また忠敬はこのほかに測量器具代として70両を支払っています。

忠敬の測量について、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価し、同じ天文学者の間重富(はざま しげとみ)宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」と綴っています。

蝦夷地測量で作成した地図に対する高い評価は若年寄堀田正敦の知るところとなり、翌年には、第2次測量として東北地方東海岸の測量が行われました。

さらに、1802年の第3次測量(東北地方日本海沿岸)、1803年の第4次測量(中央部太平洋沿岸~日本海沿岸)と東日本の測量を行い、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる『日本東半部沿海地図』を完成させました。

出来上がった地図は、江戸城の大広間でつなぎ合わされ、将軍徳川家斉の上覧を受けましたが、初めて忠敬の地図を見た家斉は、その見事な出来栄えを賞賛したと言われています。

高い評価を受けた忠敬は幕臣に取り立てられることになりました。

それまでの測量により、子午線1度の長さが28.2里(現在の距離にして110.75km)となったことから、当時最先端の天文書「ラランデ暦書」における数値とほぼ一致したため、師弟ともに手を取り合って喜んだという話が伝わっています。

この数値から計算すると地球の大きさは39,960km。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果でした。

師の至時は東日本地図の完成を前にこの世を去りました。
至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたといいます

「Life」in bloom-その3-

第5次以降の測量は幕府の直轄事業となり、経費もすべて幕府から支給されるようになりました。

当初の予定では、33か月で終える予定でしたが、実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要しました。


伊能忠敬について-西日本測量から『大日本沿海輿地全図』完成まで

1805年から1806年の近畿および中国地方、1808年から1809年の四国地方、1809年から1814年の九州地方を終え、さらに1815年の伊豆七島および1816年の江戸市中の測量を行い、17年を費やして完了しました。

測量旅行の回数は、10回に及びましたが、忠敬は第九次の伊豆七島測量を除いて、全測量に従事しました。

測量距離は約4万キロ、忠敬自身の旅行距離は3.5万キロに達しました。

1814年、第8次測量終了後に住居を移転し「地図御用所(ちずごようしょ)」とし、そこで地図作りを精力的に行っていましたが、すべての測量をおわり、弟子の問宮林蔵が担当した蝦夷地の測量デー夕を受けとったのち、文政元年5月17日に地図御用所であった八丁堀の自宅で亡くなりました。享年73歳。

地図御用所では、忠敬の死を隠して、門弟や天文方下役により、地図作成は継続され、3年余り後の文政4年(1821年)に大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる「大日本沿海輿地全図」が完成しました。

上司の高橋景保(たかはし かげやす)は、忠敬の孫・忠誨(ただのり)と下役一同を伴って登城し、伊能忠敬の仕事として老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供しました。

その後、9月29日に至って、忠敬の喪が発せられました。

「大日本沿海輿地全図」は幕府の書庫に秘蔵され、公開されることはありませんでしたが、明治以降には、さまざまな用途に利用されました。

正本は、皇居の火事により明治初頭に焼失してしまいましたが、伊能家から政府に提出された控図を、内務省、陸軍、海軍が模写して、地形図、海図など、国家の地図作成に利用しました。

その控図も関東大震災により焼失しましたが、大名などに進呈された副本などが現在も残され、そのうちいくつかは国宝や重要文化財に指定されています。

二度の人生を生きたと言われる伊能忠敬。
隠居直前に、長男にあてて書かれた家訓が残っています。

ひとつ 彼にも偽りをせず孝弟忠信にして 正直たるへし
ひとつ 身の上の人ハ勿論 身下の人にても 教訓異見あらハ 急度相用堅く 守るへし
ひとつ 篤敬謙譲とて 言語進退を寛裕ニ 諸事謙り敬ミ少しも人と争論など成べか
    らず

「偽らずに正直でいること」「例え目下の者であっても 良い意見は取り入れること」「謙虚にして人と争わないこと」

厳格な性格だった忠敬は、規律を重んじ、測量期間中は隊員に禁酒を命じていました。また、能力の低い隊員に対しては評価が厳しく、身内でも特別扱いせず、息子の秀蔵も1人の内弟子として扱い、そして最終的には破門しています。

根気強く、几帳面でもあったそうで、測量中に合わせて51冊の日記を残しています。
測量作業においても、技術の革新こそありませんでしたが、根気強い観測とさまざまな工夫でそれを補ったと言います。

忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語っていました。

その願いが叶い、忠敬は上野 源空寺で高橋至時・景保父子の側で眠っています。

参考資料

伊能忠敬 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/e25a

高橋至時 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/axwc

伊能忠敬:隠居後に前人未到の全国測量を成し遂げ、精密な日本地図を作成 | nippon.com
https://blooming-days.njs.xyz/rfcg

伊能忠敬って – InopPedia tokyo –
https://www.inopedia.tokyo/01ino/

「伊能忠敬/後編」元NHKアナウンサー 松平定知|NECネクサソリューションズ
https://blooming-days.njs.xyz/d485

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。5/17分については、放送終了後に更新いたします。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

見るラジオ

今回は、セルビア共和国北部の都市「ノヴィサド」の街中を散策しながらラジオ番組を聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、下記のものを使用させていただいています。

動画について

Walking in NOVI SAD / Serbia 🇷🇸- 4K 60fps (UHD)
POPtravel
https://www.youtube.com/watch?v=996_ylB-hEQ

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

Could I Believe by Mountaintops
https://artlist.io/song/62148/weekend-getaway

Let Me Dream by Max Hixon
https://artlist.io/song/63985/let-me-dream

All In by The Wildcardz
https://artlist.io/artist/1324/the-wildcardz

Once He Is Back by Gvidon
https://artlist.io/song/62286/once-he-is-back

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