Blooming Days+,March’23 | 倉嶋桃子|79.1MHz KOCOラジ

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days+,March’23

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2021年3月23日(火)

みなさん、こんにちは。倉嶋桃子です。

まだ寒さが残る2月下旬頃からいち早く芽吹き、いつの間にか花が咲いていた「みつまた」という低木樹が通勤途中にあります。

秋になると葉を落とす落葉性の樹木のため、花がついていないと枯れたような細い枝振りの状態なので、花芽が出てきて初めて生きている樹木だと気づくような地味な木です。

一般的には「みつまた」と言われていますが、元々は駿河・伊豆地方の方言だったようで、三河地方の「じゅずぷさ」、伊勢地方の「みつえだ」、中国・四国地方の「みつまたやなぎ」「むすびき」、高知では「やなぎ」「りんちょう」と産地によって呼び方があったようです。

このみつまた、日本の野山に自生しており、樹皮の部分を古くから和紙の原料として利用されてきました。
和紙の原料としては、こうぞ、がんぴ、などが他にもありますが、ミツマタで作られた和紙は、他に比べて繊維が柔軟で細く、更に丈夫で紙の表面に光沢があり、印刷適性に優れているので、「局納みつまた」として国立印刷局に納入され、日本銀行券の原料として使用されています。

この「局納みつまた」は、島根、岡山、高知、徳島、愛媛、山口の6県が生産契約を結んで生産されていていますが、2005年度以降生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2016年の時点では9割がネパールや中国から輸入されたものだったそうです。

2024年度の新紙幣発行を視野に、今後は耕作放棄地などで「みつまた」を新たに栽培する動きがあるとのこと。

何気なく見ていた庭木にも、暮らしの中に密接に関係したものがあるものだと改めて驚きました。
きっと皆さんの住んでる地域にもある目にする機会が多い樹木ですので、見かけたらぜひ観察してみてくださいね。

参考資料

ミツマタってどんな花なの? 特徴や栽培方法などを徹底解説!
https://gardenstory.jp/plants/50140

ミツマタ(Wikipedia)
https://blooming-days.njs.xyz/vxo7

Awagami Factory 和紙の原材料
http://www.awagami.or.jp/awawashi/genryo.html

それでは、本日の放送内容です。

般若心経の生みの親、三蔵法師のお話-その1-

昨日のFMひがしくるめの放送では、3/20春分の日にちなんでお彼岸をテーマにお送りいたしました。
今日は、昨日取り上げた般若心経の生みの親、三蔵法師をテーマにお送りいたします。


三蔵法師とは

昨日は、「読経」というものは亡くなった故人を偲ぶものではなく、今を生きている人がより幸せになれるように唱えるもの、そのお経に書かれている内容は、世の中(宇宙全体)の真理、私たちが『心安らかに生きていく』ための考え方、さまざまな仏様の恵みやご利益の素晴らしさといったものが主になっている、というお話でした。

その中で、よく読まれるお経として般若心経のお話もいたしましたが、これが600巻のお経を260文字にまとめたもので、そのまとめた人というのが、西遊記でお馴染みの三蔵法師という事です。

この三蔵法師というのは、人の名前ではなく、仏教でいう、経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)の三つの蔵に精通した僧侶のことで、お経の翻訳をする僧侶のことをいいます。
三蔵法師は大勢いるのですが、その中で有名な三蔵法師の一人が、西遊記でお馴染みの玄奘三蔵で、この玄奘三蔵をモデルに作られた小説が『西遊記』です。
テレビのドラマなどでは、女性として描かれることが多いですが、実際は男性です。

この玄奘と言うのは戒名で、俗名は陳褘(ちんき)。
鳩摩羅什(くまらじゅう)と共に二大訳聖、あるいは真諦(しんたい)と不空金剛(ふくうこんごう)を含めて四大訳経家(よんだいやっきょうか)とも呼ばれています。

629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。
以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となりました。

法相宗は、唐の皇帝、高宗(こうそう)の厚い信任を得たことから、8-9世紀に隆盛を極め一世を風靡しましたが、教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、時代とともに次第に衰え、安史の乱(あんしのらん)や会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)によって致命的な打撃を受けたそうです。
その後、宋・元の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられていますが、詳細は不明だそうです。

日本では、1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となりましたが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗(しょうとくしゅう)を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたったとのこと。

陳褘(ちんき:玄奘の俗名)は、602年に洛陽にほど近い現在の河南省洛陽市偃師区(えんしく)緱氏鎮(こうしちん)で生まれ、10歳の時から仏教を学びました。
仏の教えを学んでいるうちに、元となるお経は同じはずなのに、高僧と呼ばれる人たちの教えには対立する学説や矛盾点が多く、その根拠となる経典を見てもよくわからないという問題にぶつかり、これは天竺まで行って確かめるしかないと思い立ちます。
しかし、当時国交のなかった天竺への留学許可がなかなか降りず、26歳の時に極秘に出国することを決意。
「玄奘を捕らえよ」という通達が、各地に出されていたため、昼は潜伏し、夜はひたすら道を急いで、西へ進んだそうです。

ゴビ砂漠では、道案内人に命を狙われたり、砂漠の中で渇死しそうになるなど、さまざまな苦労を重ね、やっとの西域の一国、高昌国(こうしょうこく)に到着。
中国の長安から俊才の青年僧がやってきたという噂は、たちまち広がり、高昌国の王は、直ちに駿馬数十頭からなる迎えの使者を送り歓迎したそうです。

国王は、玄奘の学識、人格にほれこみ、彼を自国に引き留め、高昌国の仏教の国師になってほしいと頼みますが、天竺へ行くのを諦めるわけにはいきません。
出国を認めてくれない国王に対し、玄奘は断食をして固い決意であることを示したそうです。
その甲斐あってか、一ヶ月仏教の講義をすることを条件に出国を許可、玄奘は喜んで国王や側近たちに仏法を説き、王はお礼には四人の従者と莫大な旅費、通過予定の国王に対して保護・援助を求める文書を玄奘に贈り天竺への旅は続けることができました。

苦難を重ねて、インドについた玄奘は、各地の仏跡を巡拝したり研学に励みました。

四十歳になった玄奘は学び終えた大乗仏教の教えを中国に広めたいと、帰国を決意。
収集した経典の輸送には馬二十二頭を要し、困難を極めたそうです。
インダス川を渡る際には、一隻の川船が転覆し、五十巻の経典が失われましたが、五十日間かけて失った経典を書写。
645年1月、彼は、17年ぶりに中国の都・長安へ帰り着きました。

出国する16年前には、密出国の件で追われていた玄奘ですが、幸いにも帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価し、罪を問うことはなかったそうです。

他、倉嶋とディレクター小出との詳しいお話の内容は、ポッドキャストをお聴きください。

般若心経の生みの親、三蔵法師のお話-その2-

帰国した玄奘ですが、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げました。


経典の翻訳について

玄奘は、時の皇帝・太宗に、持ち帰った経典を正しく漢訳し、中国仏教に正法を確立したいと、国家援助による経典翻訳の許可を求め、長安に翻訳所が設置されました。

この翻訳所には、すぐれた学僧が多く集められ、5つの工程で翻訳作業が進められました。
まず、玄奘がサンスクリット語の仏典を中国語に訳し、筆受と呼ばれる筆記担当者が筆記し、その翻訳された個々の言葉(中国語)の意味に誤りがないかを考証、そしてサンスクリット語に対する適切な音写文字を当てはめ、さらに訳された中国語がサンスクリット原文に一致するかどうかを確認、そして最終的には立派な文章の形態になるように修正すると言う作業で、スタッフは7〜80名。

玄奘には、全工程の指導監督はもとより、原文校訂の仕事が課せられていて、伝記では、次のように記されています。

伝記より

「玄奘は、もっぱら翻訳に努め、片時も無駄にすることはなかった。毎日、自ら日課を定め、もし昼間所用があってそれが果たせない場合には、必ず夜に持ち越して続け、十一時を過ぎてから筆をおき経典を収め、さらに仏を礼拝し勤行をなして、夜中の一時になってからしばらく眠り、五時には再び起きて、サンスクリット原典を読誦し、朱点を次々に加えながら、明け方から、訳す個所を推し量った」

このように、寸暇を惜しんでの努力があったなればこそで、この翻訳作業も、まれにみる速度で進行していったそうです。

玄奘の翻訳は原語の意味に最も忠実であった為に新訳(しんやく)と呼ばれ、従来の旧訳(くやく)とは一線を画するものでした。

旧訳と呼ばれるものは、三蔵法師の一人、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が翻訳したもの。
鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、玄奘よりはやく、344年から413年を生きた人で、インドでも中国でもない国の出身ですが、天才的な語学力を発揮して、大変美しい文章で翻訳したそうです。

玄奘が翻訳した経典の総数は76部1347巻。漢字にして約1100万字。
経典の中で最も重要とされる『大般若経(だいはんにゃきょう)』の翻訳作業を終えた100日後に亡くなったため、国外から持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることはできませんでした。

亡くなった時、天地は色を変じ、鳥獣は哀しげに鳴いたといい、遺体は77日経っても少しも変わらず、異臭もしなかったということです。
葬儀には、送る人100余万人、その夜墓前に泊まる人3万余人ともいわれています。

玄奘三蔵のお墓について

玄奘三蔵のお墓が埼玉県にあるということはご存じでしょうか?

昭和17年、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようということになり、丘を整地していた際、天聖(てんせい)5年(1027年)に三蔵法師の頂骨が演化大師可政(えんかだいしかせい)によって長安から南京にもたらされたことが記された石棺が発見され、日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが判明。

発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されましたが、「法師は仏教の一大恩人であり、日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう」という趣旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰(くらもちしゅうほう)氏に手渡されたそうです。

当初は、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一灰燼(かいじん)に帰することがあってはならないということで、一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。
しかし、蕨市の三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、さいたま市岩槻区の慈恩寺(じおんじ)に仮奉安することになり、昭和19年に正式に奉安、その後、台湾、奈良の薬師寺、飯能市にある鳥居観音にも分骨されたということです。

他、倉嶋とディレクター小出との詳しいお話の内容は、ポッドキャストをお聴きください。

般若心経の生みの親、三蔵法師のお話-その3-

さて、今日は玄奘三蔵のお話をしていますが、忘れてはいけないのが、テレビのドラマでも有名な西遊記です。


「西遊記」について

『西遊記』は、中国で16世紀の明の時代に大成した白話小説(はくわしょうせつ:より話し言葉に近い口語体で書かれた文学作品)で、三蔵法師が白馬・玉龍(ぎょくりゅう)に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経(しゅけい)を目指す物語、全100回。中国四大(しだい)奇書(きしょ:世に稀なほど卓越した書物)に数えられるお話です。

原作での三蔵法師は、度々腰を抜かすなど性格の臆病な面が描かれ、他の4人と違い妖力が無く、法力(ほうりき)がわずかであるため、妖怪の仕掛けた策略や罠に簡単に引っ掛かり、そのたびに弟子を破門したり敵に捕まり、生命の危機に瀕する…というのを繰り返す、トラブルメーカー的な側面があるという設定だったようです。

西遊記の中では、各登場人物に前世の設定があり、それぞれ、その前世での罪を償うために修行をしているという設定になっています。

例えば、猪八戒。
元々は、天帝の水軍を指揮する天蓬元帥(てんぽうげんすい)という偉い提督でした。
しかし、同じ天上にいる月の女神に言い寄ったことが天帝の耳に入り、2000回の鞭打ちの刑の末、人間からやり直せと身分をはく奪された上に、天上から落されました。
ところが、何の手違いか豚小屋に落とされ、豚の子として生まれ変わります。自暴自棄になり、人を喰う妖怪となりますが、「三蔵法師の供をして天竺まで行くなら、その罪は許される」と言う話を聞き、三蔵法師のお供をするようになりました。

次に沙悟浄ですが、元々は、天界において、天帝の側近くに仕えガードする捲簾(けんれん)大将という近衛(このえ)大将でした。
しかし、蟠桃会(はんとうえ)という聖王母(せいおうぼ)の誕生会で、聖王母が大事にしている玻璃(はり)の器を落して割ってしまい、天帝の怒りを買い、800回の鞭打ちの刑の末、地上に落とされました。
さらに、天帝は罰として、7日に一回、天から鋭い剣で狙い撃ちしていたそうで、理不尽にもほどがあると砂漠に迷い込んだ人間を食べる妖怪になったそうです。
ここでも、猪八戒同様、「三蔵法師の供をして天竺まで行くなら、その罪は許される」と言う話を聞き、三蔵法師のお供をするようになりました。

そして三蔵法師ですが、彼は前世では、釈迦の二番弟子でした。
しかし、釈迦が二番弟子にしている程なのに、釈迦の説法を聞かず、その教えを貶す(けなす)ような事をしたようです。
その為に釈迦の逆鱗に触れ、東方に転生(てんせい)させられてしまい、天竺から仏典を持ちかえれば、以前の罪は許され、来世では、天界に上り、釈迦の側で仕える事が出来ると言う事で、天竺に向かうのですが、毎回、流沙河(りゅうさが)に巣くう妖怪、沙悟浄に食べられてしまい、今回は10回目の転生です。

さて、「西遊記」の結末は覚えていらっしゃるでしょうか?

一行がようやく天竺までたどり着いたのは長安をあとにして14年目のこと。
霊鷲山(りょうじゅせん)の雷音寺(らいおんじ)に入ると、釈迦如来が現れ、35部、全部で5048巻のお経を授けられます。
長安に戻って太宗皇帝に経典を渡し、雁塔寺(がんとうじ)に納めると八大金剛(はちだいこんごう)が現れて一行を連れ去っていきました。
そして、ついに五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)、悟空は闘戦勝仏(とうせんしょうぶつ)、八戒は浄壇使者(じょうだんししゃ)、悟浄は金身羅漢(こんしんらかん)、玉龍は八部天竜(はちぶてんりゅう)となりました。
悟空の頭からはいつの間にか緊箍(きんこ)の輪が消えていました。
めでたし、めでたし。

他、倉嶋とディレクター小出との詳しいお話の内容は、ポッドキャストをお聴きください。

参考資料

玄奘三蔵 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/7o08

三蔵法師 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/5iwt

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)旅行記とルート
https://true-buddhism.com/history/genjo/

慈恩寺 板東三十三観音霊場 三蔵法師霊骨奉安
http://www.jionji.com/

西遊記 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/asmd

えっ?三蔵法師にも、猪八戒にも沙悟浄にも前世があった!? | はじめての三国志
https://blooming-days.njs.xyz/cy7d

郡山市民検定

このコーナーは、郡山を離れて30年経つ倉嶋さんが、きちんと郡山のことを覚えているいるかどうか確認するコーナーです。

生まれ育った地ですから知っていて当たり前の事なんですが、もし1問も正解することができなかった場合、郡山出身の西田敏行さんのモノマネをしていただきます。

3問全問正解を累計10回獲得した場合、心躍る素敵な商品をご進呈致します。


今回も…。

お話色々と盛り沢山となったためお休みとなります。
またの機会までお待ちください。

-番外編-慈恩寺から玄奘塔まで

今回「玄奘三蔵」のお話の中でご紹介した通り、さいたま市岩槻区に玄奘三蔵の遺骨が分骨され安置されているとのことがわかり、早速倉嶋とディレクター小出とで現地へ足を運んでみました。

奉安されている「玄奘塔」まで行くために、最寄り駅である東武アーバンパークライン(旧:東武野田線)「豊春駅」から、どのように行くべきか、検討するところからスタートです。
徒歩だと距離があり、電動自転車くらいがいいのではと思ったものの、豊春駅周辺に電動レンタサイクルがないということがわかり、最寄駅からの移動を断念。
ディレクター小出がよく知っているという、武蔵野線東浦和駅ほど近くにある、電動レンタサイクルを利用し現地まで行ってみることにしました。

時期的に桜も咲き始めており、わかりやすい経路がいいだろうということで、「見沼代用水」の遊歩道を使うことにしました。
「見沼代用水」とは、江戸時代1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永(いざわ やそべえ)が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水といわれるに沿って作られたもので、用水路に沿う形で「緑のヘルシーロード」及び「水と緑のふれあいロード」が作られており、その道を使ってまずは、岩槻駅周辺を目指すことにしました。

この道沿いは、桜の並木道が続いていて、ソメイヨシノから違った種類の桜まで多くの桜の木が植えてあり、咲き揃ったものからこれから咲くものまで見ながら走ることができます。

当日は、快晴で風は心地よく、陽射しもたっぷりだったため、比較的多くの方がウォーキングやランニングなど体を動かしたり、本格的なロードレース用の自転車でサイクリングをされている方、所々で外でお昼ご飯を食べていたり、休憩されている方など目にしました。

岩槻区へ入り、お昼休憩。
たまたまたどり着いた岩槻人形博物館に隣接する、ヨーロッパ野菜をメインとした本格的なカフェレストラン「ヨロ研カフェ」へ。(ヨロ研についての詳細は、公式HPをぜひご参照下さい。)

埼玉県は、日本有数の「ヨーロッパ野菜」の生産地とのことで、こちらのカフェでは県内で作られた新鮮なヨーロッパ野菜を取り扱っています。
店内入って右側にあるカフェでは、自慢の「ヨーロッパ野菜」を使ったお料理やスムージー、ハーブを使った飲み物などがあり、他にも県内産の材料にこだわったジェラートやパンケーキ、デザートなどもありました。
また、入口左側には、地元の銘菓やおススメのお土産物、地元の農家さんたちが作った「ヨーロッパ野菜」が販売されており、購入することもできます。

ここで倉嶋とディレクター小出が食べたものは、ヨロ研野菜たっぷりの「ヨロ研カレー」。
7大アレルゲン不使用で、さいたま市の学校給食でも提供されたカレーだそうで、野菜の甘みと旨味をしっかり感じられる優しいお味。一緒に盛り付けられていた雑穀米にカレーとお野菜も合わせて、しっかり噛んで食べたせいか、お腹がいっぱいになりました。

お昼休憩の後は、再び自転車に乗って一路「慈恩寺」へ。

簡単な地図は確認していたのですが、大まかな道路の記憶と方向を勘を頼りに進むと…、

ようやく到着!

慈恩寺は、華林山最上院ともいい、天長元年(824年)に慈覚大師(円仁)によって開かれた天台宗の古刹です。

手指を消毒し、階段を上り入れるところまで進んでお参りしました。

本来であれば、さらに中へ入れるところもありますが、感染症対策とのことで手前から中の様子を見ることができます。
向かって左側には番組内でもご紹介した「六波羅蜜」について説明書きが貼ってありました。

ひと通りお参りした後は…、

玄奘三蔵が分骨され奉安されているという「玄奘塔」へ。

慈恩寺へ向かう途中辺りにあると地図上は確認できていたものの、周辺を通った際に気がつかなかった私たちは、慈恩寺にいたご住職と思われる方へ道を聞き、改めて進んできた道を戻る方向へ進んで行くと、曲がり角のところに、目印の「玄奘塔へ」の看板をやっと発見。(慈恩寺から進まないと見えない場所に設置してありますので、岩槻駅方面から向かうとわかりにくいかと思います。)

看板を目印に左へ曲がっていくと、ようやく到着です。

山門を見てみると、日本のお寺に見られる様式とは違う、中国をイメージさせる色合いと様式。

細かい部分にまでこだわった配色やデザインだと感じます。

境内へ進むとまず目につくのが、玄奘三蔵の像。

資料のよると、当時の人の中では体格がよくイケメンだったとのことですが、いかがでしょうか?

角度を変えてさらに、もう一枚。

銅像の後ろのあたりにあったのが、玄奘三蔵が辿ったと言われている経路を表した紀行図。

ここまで電動自転車を使ってやっとたどり着いた私たちにとってみれば、この紀行図を見ただけでも、当時どれだけの苦労があったかは想像に足ることで、改めて玄奘三蔵の偉業に驚いたところです。

紀行図を眺めた後、更に先へ進むと、

玄奘塔が目の前にあり、参拝することができます。

季節の綺麗な花が供えられていました。

また、ここで倉嶋とディレクター小出とお線香をあげ、番組で取り上げた旨の報告と、平穏無事にこの電動自転車の旅(?)が終わることをお祈りいたしました。

お参りの後は、摩尼車(まにしゃ)を回してみることにしました。

摩尼車(まにしゃ)とは、主にチベット仏教で用いられる仏具の事ですが、時計回りに回すとすべての経典を読んだことと同じということで、早速倉嶋も一周。
ちなみに、反対に回ってしまうと、悪いことが起きるとか…。皆さんも気をつけてくださいね。

お参りの後、すぐそばにあるのがこちらの不思議な建物。
よく見ると、PIZZAの文字が見えます。

こちらは現在毎週木曜日のランチタイムの時間帯で、ご予約のお客様のみ利用できる「茶寮 余白坊(さりょう よはくぼう)」というレストランのようです。
名物は、入口左側にある石窯で焼くピザで、美味しいらしいです。(リンク先のご案内をご参照下さい。)

隣には、風情のある建物。

詳しいことはわからなかったのですが、玄奘三蔵についての説明書きが側面に貼ってありました。

どなたが書いたのかわかりませんが、地元では三蔵さんと親しみを込めて呼ばれていることや、地元の小学生もこの三蔵法師のことについて学ぶ機会があったことなど書いてありました。

この説明書きがあった建物、「倭杖林(わじょうりん)」という建物は、先々代の住職とのご縁で二十数年前から、隣接する玄奘塔を守るために住居を構えたという原直一さんが建てたものだそうで、先ほどご紹介した石窯があったお店も、原さん自らピザ職人として腕をふるっているとか。

さらに、資料によるとこの原さんは、境内にある玄奘三蔵の像を作られた方とのことです。

境内をひと通り散策し、帰りは電動レンタサイクルを返却できる岩槻駅まで自転車で向かい、そこからは電車で帰路につきました。
適度に疲労はしたものの、お天気にも恵まれ清々しい気持ちで今回の旅は終了です。

全走行距離は、26.8㎞!頑張れば行けるものですね。

さて、本日は「般若心経の生みの親、三蔵法師のお話」をテーマに、お話お送りいたしました。

番組では、放送内容他、ポッドキャストのみ聴くことができる放送内容の予告、放送を振返る放送後記、そして、毎週月曜日に放送しているFMひがしくるめの放送内容など、ポッドキャスト配信をしています。

皆さんのお好きな時間に、お好きな楽しみ方を、ぜひお試しいただければと思います。

見るラジオ

今回は、関西最大級の豪華遊覧船「ロイヤルプリンセス号」に乗って、神戸港から大阪湾までのクルーズを楽しみながらラジオ番組を聴く、そんな動画を作ってみました。

使用している動画は、下記のものを使用させていただいています。

動画について

[背面展望]神戸ベイクルーズ ロイヤルプリンセス号 神戸港↔大阪湾
gothloli miku
https://www.youtube.com/watch?v=gSRyMJTIvHQ

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

Pray by Duce Williams
https://artlist.io/jp/song/53228/pray

Same Time by Zac Crook
https://artlist.io/song/51416/same-time

Heavenly Favored by Jasmine J Walker
https://artlist.io/song/56058/heavenly-favored

Proof by Tom Goldstein
https://artlist.io/song/56296/proof

Podcast

放送をお聞きいただいた皆様、メッセージをいただきました皆様、本日もありがとうございました。

番組では、特設サイトのメッセージボード、または、KOCOラジの メッセージフォームにて、皆様からのメッセージ、ご感想をお待ちしております。

次回も、「Blooming Days PLUS-日々是好日-」で、皆様とお耳にかかれることを楽しみにしております。