Blooming Days,March’15 | 倉嶋桃子|85.4MHz FMひがしくるめ

Blooming Days - 日々是好日 -

Blooming Days,March’15

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2021年3月15日(月)

みなさん、こんにちは。倉嶋桃子です。

昼間の気温差がまだまだ大きい日が続いていますが、お花が咲きだしたり、植物が芽吹いてきたり、少しずつ景色が色づいてきたなぁという気がします。

さて、お花には観賞用と食用とありますが、皆さんは食用のお花を食べたり、食材として使ったことはありますでしょうか?

食用のお花は、エディブルフラワー(英語でedible flower)とも言われ、毒性がなく生でも食べられるお花のことを言いますが、最近はお茶や紅茶、お菓子、サラダといったお料理にも使われ、舌だけでなく目でも楽しめる便利な食材だなぁと感じます。

大概は、高級な飲食店で目にすることが多いので、特別な時に食べるものという感じもしますが、よくよく考えてみると、日本では昔から桜の塩漬けや菊の花の酢の物、菜の花の和え物、といった風に食べられてきました。
最近はさらに種類も増え、食用のパンジー、スイートピー、マリーゴールド、ベゴニアなど約70種類あり、日本では、愛知県豊橋市が主な産地で、全国のシェアは約90%だそうです。

私も何度かデパートの食材売り場の中で、様々な種類のはいったパック詰めのものを購入したことがあり、いつものサラダのトッピングとして使いましたが、自宅で食べるいつものお料理もワンランクアップしたように見え、おススメです。

ほとんどのエディブルフラワーは、際立った特徴的な味があるという感じではなく、淡白な味なので、お料理に添えたりトッピングしたりすることがほとんどです。
また、一緒に食べる食材の味を邪魔することがないので、先にご紹介したように、お菓子からお料理にまで様々な用途に使うことができます。

このように味が淡白で添え物で使われることの多いエディブルフラワーですが、野菜と同じようにまたはそれ以上に栄養価が高いものもあるようです。

例えば、トマトには100gあたり540ug(マイクログラム)、ブロッコリーには720ugのビタミンAが含まれていますが、カレンジュラというお花は、100g換算では9400ug、ナスタチウムというお花は1900ug、と野菜よりも多いようです。

他にも、馴染みがある食用のバラは、キャベツ100gあたりのビタミンCは41mgに対し120mg、パンジーは130mg、カーネーションは78mgとのこと。

見た目も華やかで栄養価も高いエディブルフラワー、これからの時期に外でのお花見だけでなく、食卓の上でも取り入れてみるのもいいかもしれません。

参考資料

エディブル・フラワー(ウキペディア)
https://blooming-days.njs.xyz/m4au

エディブルフラワーはなぜ食べられる?特徴と使い方
https://blooming-days.njs.xyz/hd8h

食用花き栄養特性調査実績
http://www.pepian.com/nutritivevalue.htm

それでは、本日の放送内容です。

「Interest」in bloom-その1-

今から304年前の今日 3/15は、江戸幕府8代将軍 徳川吉宗が 大岡忠相を江戸 南町奉行に登用した日です。
「大岡裁き」でお馴染みの江戸町奉行 大岡忠相は、実在した人物ではあるものの、自身で担当したおもな事件は白子屋事件くらいで、有名な天一坊事件(てんいちぼうじけん)ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とは かかわりありません。
しかし、大岡忠相は、有能な官僚で、常に庶民の暮らしを考え、江戸町民のためにさまざまな施策を行いました。
今日の「Interest 」in bloomでは、時代劇で名奉行「大岡越前の守」として知られている大岡忠相についてお話しいたします。


大岡忠相について

忠相は、1700石の旗本・大岡忠高(おおおか ただたか)の四男として江戸に生まれました。
1693年(元禄6年)に、実兄、大岡忠品(おおおかただしな)が徳川綱吉の怒りを買って八丈島に流罪、1696年(元禄9年)には、一族の書院番(しょいんばん)だった忠英(ただふさ)が番頭を殺害して みずからも死ぬという事件が起き、彼の一族とともに連座するという不幸にあいますが、以降は順調で、1702年(元禄15年)に徳川将軍 直属の親衛隊である書院番に就くと、1704年(宝永元年)には徒頭(かちがしら)、1707年(宝永4年)に使番(つかいばん)、1708年(宝永5年)の目付を経て、6代将軍・徳川家宣の世になると、1712年(正徳2年)36歳の大岡忠相は、遠国奉行(おんごくぶぎょう)のひとつである伊勢山田奉行となり,従五位下(じゅごいげ)能登守(のとのかみ)となりました。

在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたといいます。

当時の紀州藩主で、後に将軍職に就任し忠相を抜擢する吉宗は、事実上一方の当事者だったにもかかわらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたといわれています。
山田奉行時代に忠相と吉宗の間に知縁ができたとする同様の巷説は幾つかありますが、実際には奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなかった為、紀州藩との境域問題を解決したのは、第18代大岡越前ではなく第10代桑山貞政(くわやま さだまさ)であることは「山田奉行御役所(やまだぶぎょうおやくどころ)旧記」に記録されており、山田三方会合(やまだ さんぽうえごう)「山田古法式目(やまだこほうしきもく)」にも桑山貞政奉行が紀州藩に申し入れ、寛文7年11月に解決したと記されています。
これを大岡越前の業績としたのは、享保以降、歌舞伎の題材を狙った作り話と言う説があります。

1716年(享保元年)普請奉行(ふしんぶぎょう)に転じ、翌17年2月3日町奉行に昇進、名前を能登守(のとのかみ)から越前守(えちぜんのかみ)と改めました。
忠相は、当時41歳。
それまで、60代で就任することが多かった町奉行に40代で就任したことで、抜擢人事 と言われてもいますが、遠国奉行を経て江戸町奉行という昇進コースは順当なものだったようです。

吉宗は享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手しますが、忠相は諸改革のうち、町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所(ひょうじょうしょ)一座にも加わり司法にも携わりました。
町代(ちょうだい)の廃止や町名主(まちなぬし)の減員など、町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、1718年(享保3年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、1720年(享保5年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成しました。

また、江戸の町を焼き尽くし、死傷者を10万人も出したという1657年明暦3年の大火以降、60年間使用禁止となっていた瓦葺屋根使用の禁令を解き、土蔵など防火建築の奨励や火除地(ひよけち)の設定、火の見制度の確立なども行いました。
これらの政策は一部 町名主の反発を招いたものの、忠相は諦めずに説得を続け、助成措置を講ずるなどして江戸の防火体制を強化させました。

1721年(享保6年)12月には、江戸時代の町医者で漢方医、山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚(あかひげしんりょうたん)」の主人公”赤ひげ先生”のモデルとして知られる小川笙船(おがわ しょうせん)から施薬院(せやくいん)設置を嘆願する投書が目安箱に寄せられ、これをきっかけに、薬草園「小石川御薬園(こいしかわおやくえん)」の中に、貧しい人や身寄りのない人達を無料で治療する医療施設「小石川養生所」を設置しました。
この施設は、1868年(明治元年)に明治維新によって廃止されるまでのおよそ140年間、江戸の貧しい人々を支える医療施設として活躍しました。

そのほか、当時、浪人だった青木昆陽を書物奉行に取り立て、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモの栽培を助成したり、将軍吉宗が主導した米価対策では、米会所(こめかいしょ)の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言、一度は取り下げられたものの、同年 幕府はこの意見書を受け入れ「物価引き下げ令」として発布しました。

後年にかけて、裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか 地方御用を務め広く知名度があった忠相は、名奉行、人情味あふれる庶民の味方として創作された「大岡政談」によって、写本や講談で庶民の間に広まりました。虚構の逸話とは言われていますが、忠相が、有能な官僚で、常に庶民の暮らしを考え、江戸町民のためにさまざまな施策を行ったことは間違いないようです。

「Interest」in bloom-その2-

日本の歴史の中でも まれにみる有能な実務官僚であった大岡忠相ですが、テレビの時代劇で有名な「大岡裁き」は、実際の忠相とは ほとんど関係がありません。
江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、同時代から後年にかけて創作された「大岡政談」として写本や講談、歌舞伎に取入れられて広く庶民に親しまれました。


大岡政談について

現在伝えられている大岡政談は、長短90話ほどありますが、そのほとんどは幕末あたりに講釈師(こうしゃくし)によってまとめられたものと言われており、内容は中国の『棠陰比事 (とういんひじ) 』などを模したものや、関東郡代や忠相の同僚である北町奉行・中山時春の裁定したもの、忠相没後の事件も含まれており、題材が庶民の生活に関係の深い部分だったことや、日本には珍しい探偵小説的な色合いがあったことが人気となったようです。

史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは1727年(享保12年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されていますが、いずれの話も、法規の文面や形式に拘泥せず、融通性や機知に富み、人情味にあふれ、公正・明快な裁判を下したとされる忠相の功績によるものでしょう。

実際の裁判は、時代劇のように1人でするのではなく、多くは合議で裁決をしていました。
その中でも忠相は、公正を守る裁判をしていて、罪人の冤罪が発覚したときには、罪なき者が罰せられないよう再吟味をするよう他の奉行にかけあうこともあったそうです。
在任中に忠相が裁いた事件は数千を超えると言われています。

1736年(元文元年)8月12日、忠相は寺社奉行となり、吉宗から「江戸の法典を作ってほしい」との命を受けて、公事方御定目書(くじかたおさだめがき)の下巻にあたる、通称「御定目書百箇条(おさだめがき ひゃっかじょう)」を完成させます。
公事方御定目書の上巻は、警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録し、法典形式に整理編纂したもので、その大半は刑法規定であるため、一種の刑法典ともいえるものです。

それまで幕府は、今日の刑法や民法という まとまりのある法律を持っていなかったため、人により、あるいは気分により裁定がコロコロ変わっていましたが、御定目書百箇条ができたことにより、誰が裁いても同じような結果になる裁判ができるようになりました。
また、これまで死刑や追放刑など共同体から排除するという性格の刑罰だったものを、罪を犯した者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰も採用されるようになりました。
それはこの先125年つづく江戸時代の平和の礎となるものでした。

寺社奉行時代には2,000石を加増され5,920石となり、足高(たしだか)分を加え1万石の大名格となった忠相ですが、寺社奉行職は本来は大名の役職であり、20名〜30名の奏者番(そうじゃばん)が兼務することが通例でしたが、足高(たしだか)の制により就任した忠相の場合は、依然として正式身分は旗本であり、大名である奏者番を兼務する寺社奉行の同役達や奏者番達から虐げられたという話が残っています。

そもそも江戸城内において、奏者番には帯同する者たちの詰所(伺候席:しこうせき・詰席:つめせき。いわゆる控室)が指定されていましたが、寺社奉行職単独の詰所は用意されていませんでした。
通例では寺社奉行は奏者番と兼務であるので、奏者番に割り当てられた部屋を使っていればよかったのですが、忠相はそうではないため、奏者番の面々は「ここは大名の格式である奏者番の詰所である。」として、旗本格のため奏者番ではない忠相の立ち入りを禁じました。

このため数年に渡り忠相は、江戸城内で固定の詰所を持たないままに寺社奉行を務めていて、数年後にこの事態にようやく気がついた将軍吉宗により、“寺社奉行の専用の詰め所”が制定され、忠相にも控室が与えられることとなりました。
さらに1748年(寛延元年)10月、足高分が正式に加増として与えられ、三河国 西大平(にしおおひら)(現岡崎市)1万石を領することとなり正式に大名となりました。
町奉行から大名となったのは、270年という長い江戸時代の歴史の中で忠相たった一人のみ、このことは忠相が並々ならぬ有能かつ誠実な実務官僚であったことを示しています。

1751年(寛延4年)6月20日には征夷大将軍を退いて隠居していた吉宗が死去、その半年後の12月19日、75歳の忠相も静かにこの世を去りました。
江戸の市政・司法・治安を取り締まる名奉行として、徳川吉宗を支え続けた大岡忠相。
徳川時代最大の名君として、徳川吉宗が語り継がれているのも大岡忠相の活躍あってこそ。

松が 枝の 直ぐなる心 保ちたし 柳の糸の なべて世の中

「世間は柳のように流れるが、私は松のように真っすぐでありたい」

主君の期待と信頼に応えるべく、粉骨砕身(ふんこつさいしん)の努力を続けた大岡忠相。
忠相の詠んだ和歌からも 勤勉で実直な人柄がうかがえます。

「Interest」in bloom-その3-

東京港区元赤坂にある豊川稲荷。
稲荷というと、神社のイメージがありますが、ここは神社ではなく、山号(さんごう)を圓福山(えんぷくざん)とする曹洞宗の寺院で、愛知県豊川市の豊川稲荷 妙厳寺(みょうごんじ)の、唯一の直轄別院です。
お祀りしている鎮守・豊川ダ枳尼眞天(とよかわ だきにしんてん)が稲穂を担いで、白い狐に跨っておられたことから現在に至り、金運、健康運、対人運、技芸運、商売繁盛、家内安全、良縁祈願や縁切り祈願などたくさんの神様が集まっています。


大岡忠相と豊川稲荷の関係とは

赤い提灯や、たくさんの狐の石像で埋め尽くされた赤坂の豊川稲荷は、大岡忠相が晩年に三河西大平一万石の大名に任命された際に、信仰していた三河の「豊川稲荷」を本山から分霊して、赤坂の自邸の庭に祀ったのが、赤坂の豊川稲荷の起源となっています。

その後、大岡家の下屋敷が赤坂 一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られることになります。
当時、稲荷信仰は極めて盛んで、三河の豊川稲荷の本山へ詣でる「豊川参り」は、「伊勢参り」に次いで人気を集めていましたが、関東の信者にとって三河はあまりに遠く、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していました。

この頃、吉宗によって稀有の出世を遂げた大岡忠相にあやかろうと、開運出世を願う一般の人々や、とりわけ芸道を業にする人の豊川稲荷詣では日を追うごとに増え、1828年(文政11年)、信徒の要望により、妙厳寺(みょうごんじ)が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1にあたる約250坪を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建とされています。
江戸参詣所ができたことにより、大岡邸の屋敷稲荷は「奥の院」とされました。
その後、信者が増えて手狭になった豊川稲荷は大岡家敷地内から移されることになり、明治20年に道路を隔てた斜め向かいの現在の地に遷座されました。

昨日の日曜日、一人でも多くの方に番組を聞いていただけるよう、芸事の神様、弁財天様をお参りにディレクターとともに豊川稲荷に行ってきました。
金運アップもついでにお願いしたことはここだけの秘密です。

-番外編-豊川稲荷東京別院

今回、3/15FMひがしくるめの番組内の「大岡忠相」のお話の中で、「豊川稲荷東京別院」を取り上げるにあたり、倉嶋とディレクター小出とで現地へ足を運んでみました。
倉嶋は久しぶりのお参り、ディレクター小出にとっては初めての参拝とのことでした。

丸の内線赤坂見附駅から青山通りを上っていくと、境内へ入る山門が見えてきます。
こちらの山門、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催にあたり、国道246線(青山通り)の拡幅工事により、境内前面の広場が対象になったため、境内縮小工事が行われ、現在の場所に移築されたそうです。

入口入ってすぐ右手にあるのが、こちらの恵比寿様です。
私達も最初にお参り致しました。

本来は、本殿の中へ入りお供え物を納めてお参りをするのですが、感染症対策により中には入れないようになっていたので、お供え物は用意されていた手前の棚に納め、そこからお参りを始めました。

この場所の右の柱には、「立春大吉」のお札が貼ってありました。
2/8のnoteのサイト内、放送内容をご紹介する記事の中で、「立春大吉」のお札について書いた通り、厄除けの意味があり、目線より高い位置に貼ると良いという話を思い出し、じっくり観察してみました。

左側には、こちらのお札。

このお札は、「鎮防火燭(ちんぼうかしょく)」と書いてあり、「火の用心」「悪いことを払う」といった意味が込められていて、「立春大吉」のお札と一緒に貼るといいと言われています。

やはり、豊川稲荷東京別院ですから、お手本のように人の出入りするところ、ほとんどすべてのところに、このお札が対で貼られていました。

このきつね像は、本殿の手前にある大きなものです。とても凛々しいお顔立ちで参拝者を見守ってくれているようです。

こちらは、本殿手前にある大黒天様を祀っているお社の脇にある石造の大黒天様です。
大黒天様は、豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)の化身と言われ、災難を除き、多くの福を招いてくださると言われています。

先ほどご紹介した大きなきつね像の後ろ側を進んでくると、融通稲荷という財宝をうむという尊天様が祀られています。
こちらの写真はありませんが、真心こめてお祈りすると、金銀財宝の融通が叶えられるといいつたえられているそうです。

そのお社の左にいたのが、とても神々しいこちらのきつねの像です。

続いて、先にすすむと奥には、叶稲荷のお社があります。
ここで祀られている叶稲荷尊天は、困難よけの守護神として、地相・家相・方位・厄などすべての悪縁を切り、禍事災難を取り除いて、開運招福を授けてくださる神様です。

写真を撮るときに、お社の中に飾られている小さな鏡に光があたり、とても神々しかったです。

この叶稲荷のお社隣には、弁財天様が祀られています。

七福神の中で唯一のインド生まれの女性の神様で、一般的には弁天様と呼ばれています。
音楽、弁才、知恵を司る神様ということで、ここへお参るするときは、いつもゆっくりとお祈りするところでもあります。

境内山門入ってから一番奥の方にあるのが、三神殿。
その手前には、参拝者を見守るようにたくさんのきつねの像が並んでいます。

きつねの像をよく見ると、お顔立ちが色々あるものです。

境内には、神様の像やお社にはお供え物がしてあるのですが、そのお供え物のなかの油揚げを狙って、鳥が頻繁にやってきます。
この鳥も上手に油揚げを下へ落とし、ついばんでいる様子。
もしかしたら、鳥の形をした神様かもしれませんので、境内で見かけるといつもそっと見守っています。

こちらは、霊狐塚です。
奥の院参道に向かって左側に、三段の八角大理石があり、信者の方が納められた霊狐が並んでいます。

最後にご紹介するのは、布袋様です。
お参りすると開運や良縁のご利益があります。

境内には、七福神が点在していて、七福神巡りができるようになっています。

今回、大岡忠相について取り上げたことをきっかけに、豊川稲荷東京別院へ行ってみましたが、融通稲荷の向かいには、大岡廟という大岡忠相の位牌が安置されている六角堂がありますので、ぜひお参りしてみてはいかがでしょうか?

参考資料

大岡忠相 – Wikipedia
https://blooming-days.njs.xyz/brmh

大岡越前守忠相 ~徳川吉宗を名君にした名奉行~
https://www.touken-world.jp/tips/44336/

豊川稲荷と大岡越前守
http://akasaka-guide.jugem.jp/?eid=19

豊川稲荷東京別院
http://www.toyokawainari-tokyo.jp/

メッセージをお寄せいただいた皆さん、ラジオをお聴き頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。3/15分については、放送終了後に更新いたします。

また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。

なお、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。

それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。

お相手は、倉嶋桃子でした。

倉嶋桃子_20210315

見るラジオ

今回は、小田原→熱海→伊東 全41kmを、ドライブしながらカーラジオで番組を聴く、そんな気分になれるような動画を作ってみました。

今回使用している動画は、Dashcam Roadshow さんの下記のものを使用させていただいています。

動画について

4K IZU Drive 1: Odawara to Ito / 伊豆半島ドライブ①小田原→熱海→伊東 41km
https://youtu.be/T92eqEddkiw

動画内で使用している楽曲は、次世代を担うミュージシャンたちのものです。気になる曲があったらリンク先サイトを覗いてみて下さい。

動画内音楽について

OPA! by S.O.
https://artlist.io/song/48669/opa!

My Cup Is Nearly Empty by David Jack Marshall
https://artlist.io/song/51024/my-cup-is-nearly-empty

This Blue Moon by Ian Post feat. Kama Vardi
https://artlist.io/song/55396/this-blue-moon

Think Myself to Death by Kyle LaLone
https://artlist.io/song/54897/think-myself-to-death

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