2020年8月3日(月)
みなさん、こんにちは。倉嶋桃子です。
梅雨も空け、夏もいよいよ本格的にスタートですね。
植物も人間も、太陽の光を求めて待ちに待ったという感じでしょう。
夏休みもようやく始まりまして、夏の過ごし方を検討している方もいることかと思います。
我が家の子どもたちは、部活やアルバイト、お友達との予定など、それぞれが限られた日数の中でどう過ごすか検討中のようです。
私自身はというと、ここしばらく「丸一日完全オフ」という日がなかったので、この夏こそは、なんとか時間のやりくりをして夏を堪能したいと思います。
それでは、本日の放送内容です。
時代劇や歴史小説でよく目にする大名行列。
江戸時代に各藩の大名がお国許からお江戸まで1年ごとに交代で出仕していた参勤交代制度の事ですが、この参勤交代制度、今から385年前の今日8/3に発令された「寛永令」によって武家諸法度に追加された制度です。
今では、観光イベントにあるような華やかで賑やかなものになっていますが、どうやら実際は少々違っていたようです。
江戸幕府が265年もの長きに渡って日本を治めたことに大きく貢献したと言われているこの制度、今回の「Interest」in bloomでは、この参勤交代制度について調べてみました。
戦国の世から一転、安定した二百六十年余りを維持した江戸時代ですが、その憲法に相当するものが武家諸法度です。
元々は幕府が大名を統制するための法令で、初期は将軍の代替わり毎に発令されましたが、途中から幕臣の管理も合わせた武家諸法度となりました。
現代で言えば、総理大臣の所信表明みたいなものと思えばいいかもしれません。
それまではっきりしていなかった「将軍と大名の間の関係」を、主君と家臣の関係ということにして、大名に、将軍への忠誠を約束させる事を明文化したものになります。
内容は、大名の心構えとして、文武弓馬の嗜み、遊行の自制などから始まりますが、築城禁止、隣国監視、無許可婚姻の禁止、叛逆等の犯罪者召抱えの禁止等、大名の反抗、同盟及び攻伐を抑える内容からなり、その後公儀の御大法に触れたと云う理由で、大大名の福島正則や徳川一門といえども次々改易されたので、武家諸法度は大名達に非常に恐れられたといいます。
家康の死去からしばらく経った寛永六年(1629年)には、秀忠による改正が行われていますが、その中身はほとんど変更されていません。
大きく変わったのは寛永十二年(1635年)に三代将軍・徳川家光が出したものです。
参勤交代を明文化したことの他、私闘の禁止、500石積以上の大船の禁止など明文化されていました。
この武家諸法度で、一番重要な規則は参勤交代だと言われています。
参勤交代とは、大名が領国と江戸とを1年おきに往復する制度のこと。
大名の妻子は、ずっと江戸に留まらなければならない為、大名は1年間は妻や子供に会えませんでした。
また、各藩は参勤交代によって巨額の費用と人手が必要になり、参勤交代には諸大名たちに謀反を起こさないように散財させる目的もあったともされています。
たとえば加賀百万石と呼ばれた金沢の前田家、同行した従者は2,500人から3,000人、多いときで4,000人を従えての大名行列で、金沢から江戸にのぼるのに約2週間を要し、その費用は5000両、今の貨幣価値に直すとざっと5億円以上の出費だったと言われています。
これは、道中に大名が暇を覚えたり、江戸での暮らしに不自由しないように、かかりつけの医師、茶の湯の家元や鷹匠までもが同行した上、大名専用の風呂釜などを含む多数の手回り品までも持ち運んだからとされています。
天保12年(1841年)に行なわれた紀州徳川家の参勤交代では、武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁したという記録も残されており、御三家紀州侯の大名行列などは多くの農民が見物に訪れるほど格式と威光が感じられる大行列であったといわれています。
この大名行列、「武家諸法度」では、20~100万石の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分相応に応じるとしていましたが、財力などを示す見栄のために、幕府に義務付けられた以上の供を引き連れ、行列の服装も贅を凝らしたものとなる傾向があったそうで、商売や庶民の妨げにならないように、従者の数を制限するよう、承応二年(1653年)以降はたびたびお触れを出しています。
一方、一万石以下の小さな藩は、「騎馬3、足軽20、人足30」と決められていて、お伊勢参りの団体旅行のほうが多いということもあったりしたそうで、自国領内では、自国の民衆に威厳を見せつけるために立派な服装を身に纏い、人を大量に雇った上で実際に必要な人数より多く見せることがよくみられたそうです。
映画にあった「超高速参勤交代」のような感じなのでしょうか。
さて、ここまでは、参勤交代の一般的なお話をしてきましたが、例外など特殊なケースもあったようです。
1曲お届けした後、後半は、そんな特殊なケースや、一般に知られている参勤交代の実際の姿、影響についてお話を続けます。
参勤交代は、「大名が1年を国許で暮らし、次の1年を江戸藩邸で暮らすという1年サイクルの制度」とご紹介しましたが、関東に領地をもつ半年サイクルの大名や、数年に1度の参勤という特殊なケースもあったようです。
たとえば、長崎警護の任を与えられた福岡藩および佐賀藩は2年のうち約100日を交代で江戸で過ごすよう定められ、遠国の対馬藩は3年に4ヶ月、松前藩は5年に4ヶ月のみ江戸で過ごすことになっていました。
また、例外として御三家の水戸藩は江戸定府の藩であった為、参勤交代の義務はなく、逆に幕府の許可を得て国許に帰る必要がありました。
水戸藩だけこの例外となった理由には諸説ありますが、わずか7歳で跡取りとなった徳川頼房が、幼少ゆえ現地には派遣されず、家康のいる駿府に住み、これが慣例になったのか、代々の水戸藩主は定府(江戸永住)と決められ、参勤交代が免除されることになったとも言われています。
その他、譜代大名の老中、若年寄など幕府役職に就く者も免除されました。
参勤交代の行列は他の国の大名の領地を通過することになりますが、通られる側の大名は使者を遣わして自国の産物などの贈り物などをし、場合によっては道の清掃・整備や渡し舟の貸出なども行なっていました。また、通る方も遣わされた使者に対して返礼の品を送るなどしており、両者とも互いに気を遣い合っていたようです。
また、他の国の大名の行列と鉢合わせにならないように各藩それぞれ入念な準備をしていましたが、それでも鉢合わせる事態が発生した場合は、各々の大名が籠から降り、相互に頭を下げて非礼を詫び合うこともあったといいます。
さて、ここからは、庶民の対応についてです。
庶民は行列が進んでくると、道を譲らなけばならず、馬に乗っていた場合は必ず馬から降りなければなりませんでした。
また、自国の大名行列であれば土下座を行いましたが、自国と徳川御三家の行列以外の大名行列には土下座をする必要はありませんでした。
時代劇ではよく、大名行列に出くわすと慌てて庶民が土下座する場面が描かれますが、頻繁に大名行列に出くわすことの多い江戸の中では、その必要はなかったのです。
飛脚や出産の取上げに向かっている産婆を除いて、行列の前を横切ったり、列を乱したりする行為は特に無礼な行為とされ、当時の国内法である公事方御定書によってその場で「切捨御免」も認められていました。
このため、大声で行列の到来を知らせるために徳川御三家の場合は「下に、下に」と叫び、それ以外の諸藩は「片寄れー、片寄れー」、又は「よけろー、よけろー」という掛け声を用いて道を譲らせたそうです。
地方の大名たちが「下にぃ~」と威張れるのは、江戸の領域を出てから。
自分の領地に戻ると更に強い態度を取っていたようです。
参勤交代によって、江戸藩邸の維持や大名や側近、藩士たちが江戸で暮らすための費用がかさみ、だんだん各藩の財政が苦しくなる一方で、武士を相手に仕事をする江戸の町人とりわけ商人たちはだんだん豊かになっていきました。
また、武士たちが頻繁に往来することで、江戸などの大都市の文化や産物が地方に伝わったり、街道や宿場が整備されたりという「副産物」もありました。
たとえば、1/7に七草粥を食べるという習慣や、端午の節句に柏餅を供えるという風習。
これは、参勤交代で江戸にやってくる大名やその家臣たちが「引き継ぎ」の意味で、年中行事を制度化するようになった事が始まりと言われています。
他にも、国許への土産物として買い求められた浮世絵や、全国のお雑煮にすまし汁が多いのもこの参勤交代によるものと言われています。
江戸幕府が265年もの長きに渡って日本を治めたことに大きく貢献したと言われているこの参勤交代。
文久2年(1862年)の文久の改革によって、2年に1度から3年に1度に改め、人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国が許可されることとなりました。
これによって、幕府の権威は大きく下がり、大政奉還とともに参勤交代という制度は歴史から姿を消しました。
参勤交代は盤石な大名統制システム
http://163.137.195.3/life/edo/99.shtml
知らせざる参勤交代のあれこれ。大名行列は派遣頼み?江戸では土下座をしなかった?
https://mag.japaaan.com/archives/115905/2
参勤交代ってなんのこと?
http://www.japanserve.com/nihonshi/n-reki-050-sankinkoutai.html
参勤交代(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3
参勤交代と大名行列が一気にわかる! 期間は? 妻子は? 経済的負担は?
https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2019/11/05/116847/2
関東甲信地方は、一昨日の土曜日、やっと梅雨が明けました。
日差しも強くなり、これから9月の中旬まで暑い日が続くことになりそうです。
そんな中、夏を過ごしやすくするために欠かせない食べ物と言えば、蕎麦や冷や麦、冷やし中華といった冷たい麺類。
とりわけ素麺は、夏のお昼の定番メニューといった方も多いのではないでしょうか。
今回の「Food」in bloomでは、そんな夏のお昼の定番メニュー「素麺」の色々について調べてみました。
ところで、みなさんは、素麺と冷麦の違いってご存知でしょうか?
「単に太さが違うだけ」と思っている方も多いかと思います。
確かに、消費者庁の食品表示基準では、乾麺の分類分けを、素麺は直径1.3mm未満、冷麦を直径1.3mm以上、1.7mm未満としています。
実は、この2つ、原料は同じでも製法が微妙に異なります。
冷麦は、小麦粉と塩と水を混ぜたものを平らな板と麺棒を使って生地を薄く延ばし、刃物で細く切るのに対し、素麺は、小麦粉と塩と水を練るところまでは同じですが、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、撚りをかけて細く引き伸ばして作ります。
手で撚りながら細く伸ばすのか、麺棒で伸ばして刃物で切るのかの違いということですね。
現在では、麺の製法の機械化が進み、日本農林規格(JAS)の乾麺類品質表示基準では太さによる分類がされていますが、手延べの場合は、1.7mm未満であれば、「素麺」「冷麦」どちらも名乗ってよいとされています。
この素麺ですが、奈良時代に中国から伝わった唐菓子(からくだもの)が元とされていて、その後、中国から麺を手延べする方法が伝わり現在の素麺にになったと言われています。
日本国内では、原料となる小麦、水、食塩の産地が近かったことで西日本を中心に素麺生産が盛んで、奈良県の三輪(みわ)素麺と、兵庫県の播州(ばんしゅう)素麺、香川県の小豆島(しょうどしま)素麺は、「日本三大素麺」といわれています。
この三大素麺、それぞれに特徴があります。
まず、兵庫県たつの市で作られる500年の歴史を持った播州素麺。
「揖保乃糸(いぼのいと)」が有名ですが、この「揖保乃糸」という名称。
私はてっきりどこかの企業が作った素麺の商品名かと思っていたんですが、実は商品名ではなく商標名なんですね。
ブランドを支えているのは約430軒の生産者と徹底した品質管理。
原料の仕入れから格付けまでを兵庫県手延素麺協同組合が一元管理し、検査指導員による検査に合格した製品だけが「揖保乃糸」として流通しています。
伝統的な手延べ製法にならい、撚りをかけながらの生地延ばしと熟成を幾度も繰り返して作り上げられる強いコシとモチっとした弾力は、茹で伸びしにくく滑らかな舌触りで、コシがある歯切れのよい食感が特徴です。
続いては、瀬戸内海・播磨灘に浮かぶ香川県の小豆島素麺。
奈良県・三輪に立ち寄った小豆島の島民が、素麺の製造技術を学んで持ち帰り、冬の農閑期に家族の労働だけで作れることから小豆島に広がったそうです。
小豆島素麺の特徴は、生地を延ばすときに使う植物油に小豆島特産の純正ごま油を使用していること。
小豆島素麺の代表ブランドである「島の光」は、小豆島の豊かな自然環境を生かし、潮風が吹き寄せるなかで天日干しで乾燥させています。
ごま油を使用することで少し黄色がかかった麺は、風味も他とは少し異なり、弾力のある歯ごたえとなめらかな喉越しです。
最後に、素麺発祥の地と言われている奈良県桜井市の三輪地方を中心に生産されている三輪素麺。
1200 年ともいわれる手延べ製法の基本を守り、厳選した小麦粉と塩を使って小麦の風味を生かして製造しています。
11月~3月の寒い時期に限定して作られていて、出来上がった素麺はすぐには出荷せず、乾麺のまま梅雨を越させるように木箱で貯蔵します。
あえて高温多湿の環境に置くことで小麦のグルテンが変性し、煮崩れしにくくコシがある独特の歯ごたえは、にゅうめんや炒めものにも適しています。
さて、ここまでお素麺についての歴史や特徴についてお話いたしました。1曲挟んで、後半は、お素麺の美味しい食べ方について続けます。
前半では、お素麺についての歴史や冷麦との違い、日本三大素麺と言われる三輪素麺、播州素麺、小豆島素麺の特徴についてお話しました。
ここからは、お素麺の正しい茹で方、美味しい食べ方について、お話続けます。
お素麺は、茹で方が命と言われています。
美味しく食べるも食べないも、すべてこの茹で方にかかっていると言っても過言ではないでしょう。
基本は、たっぷりのお湯で素早くゆでて、しっかり洗う。
今回は、ツヤ、コシ、味、のどごしを存分に楽しむために一手間加えてみましょう。
まずは、下準備です。
お素麺の帯を解く前に、一方の端をタコ糸で結びます。
これは、食べるときに美しく立体的に盛り付けるためです。
タコ糸をつけたまま茹でますのでほどけないようにしっかりと結んでください。
次にお湯を沸かすんですが、その前に梅干しを入れることを忘れないでください。
梅干しのクエン酸が小麦粉と結びつくことで、でんぷんが溶け出しにくくなり、麺にコシが出ます。
普通に茹でたときと、弾力がまったく違います。
1Lの水に梅干し1コ、水に梅干しをほぐさずそのまま入れて、火をつけてください。
梅干しは柔らかくてもカリカリタイプでもOKです。
お湯を沸かす時には、小さいお鍋ではなく大きなお鍋で。
お湯の量は、お素麺2束に対してお湯1リットル以上が目安です。
とにかく重要なのは、たっぷりのお湯をつかうこと。
そして、グラグラとしっかり沸騰させること。
そして、先程タコ糸で結んだお素麺をお湯に入れます。
時間は1分半から2分程度。
水を足さずに火を弱めてふきこぼれを防ぐのがゆで方のコツです。
硬さはお好みによりますが、美味しく食べるには時間との戦いです。
MAXは2分だと思って下さい。
時間になったら、素早くざるに取り、流水でもみ洗いして下さい。
特に手延べそうめんの場合、麺の表面に植物油やでんぷんがついています。
麺が切れるかもとささっと洗わず、しっかりもみ洗いしましょう。
そして、結び目を持ってお素麺を引き上げ、水を切ります。
上から絞るように水を切って下さい。
水に浮かせたままよりも水を切ってから食べるほうが格段に美味しく食べられます。
そして最後に、お素麺の結び目から少し離したところを切り落とし、崩さないように盛り付けます。
お素麺は、茹でたてが一番美味しくいただけます。
もし、召し上がるまでに少し時間がある場合は、乾燥を防ぐためラップをかけて冷蔵庫に入れてください。
再度、お召し上がりになる時に冷水をかけ麺をほぐしてください。
さぁ、これで最高に美味しいお素麺が出来ました。
あとは、お好みのつけつゆにつけていただきます。
市販の麺つゆでも十分美味しくいただけますが、練ごまを入れた胡麻ダレつゆや大根おろしと大葉を入れたおろしつゆ、ラー油やごま油、白髪葱を入れた中華つゆなどちょっと足すだけでいろいろなバリエーションが楽しめます。
つゆなどちょっと足すだけでいろいろなバリエーションが楽しめます。
また、薬味や添え物を工夫することでバランスの良い栄養満点の食事に早変わりします。
梅雨の空けたこれからが夏本番、今回の「Food in bloom」では、暑い夏にぴったりの「お素麺の歴史や特徴、そして正しい茹で方、美味しい食べ方」をお届けしました。
お素麺は食欲の落ちがちな夏でも喉を通りやすく、夏バテ防止には格好の食事です。
美味しいお素麺を上手に食事のメニューに取り入れて、夏の暑さに負けず、元気に乗り切りましょう。
日本3大そうめんどれが好き?
https://www.nomu.com/ouchi/special/201407/01.html
月刊「和食スタイル」8月号-猛暑だからこそ美味しさも引き立ちます!-
https://washoku-style.jp/archives/3786
日本三大そうめん-播州そうめん揖保の糸、三輪そうめん、小豆島そうめん-
https://travel.iwada.org/gourmet/post-11/
そうめん・うどんをもっと美味しく食べるための豆知識
https://www.shimabara-soumen.com/14397838862991
意外と知らない「そうめん・ひやむぎ」の違い&歴史と「色付き麺」の由来
そうめん雑学
http://psycross.com/blog/?p=11865
そうめんを美しく盛る!ヒモで結ぶ茹で方
今日もお聴きいただきありがとうございました。
番組では、ポッドキャストによる配信をおこなっています。8/3分については、放送終了後に更新いたします。
また、番組では皆様からのメッセージをお待ちしております。「試してみたよ」「作ってみたよ」といった番組で取り上げた内容のご感想、みなさんが感じる幸せのひとときなど、ぜひお聞かせくださいませ。
それから、番組の構成上、時間の都合でリクエスト曲にはお応えできない可能性がございます。ご容赦くださいませ。
それでは、また来週、月曜日15:00にお耳にかかりましょう。
お相手は、倉嶋桃子でした。